連なり短編「老人の海(2)」 冒頭
 海を見るとき、荒廃する気持ちと、その裏に潜む生命性を私は感じ取る。眼前に広がる青と、遥か彼方の水平線。その一部分にみえる澱んだ緑色は、私たち人間が歴史的に繰り返し行ってきた環境に対する悪行について考えさせられ、反面、その状況においても依然として生き続ける力強さを魅せる。思えば、私は海というものには幾度となく関わりを持ってきた。別段海に惹かれる男でも、好かれる男でもないはずだが、人生においてここぞという時には、常に海が傍にあった。この六十余年、時に絶望にあり、孤独にあり、幸福にあり、転々とし生を結んできた私を、想うでも貶すでもなく、この自然は唯唯監視していたのだろうと考えると、どこか感慨深くなる。そして、それくらいのものならば、それは天国とも繋がってもいようと、今の私はすっかり納得している。
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 人生では、その安定期について時折考えるごとに、貴君等に安定なぞ許さんと言わんが如く旋風を巻き起こし、我々に之は一体なんぞやと思わせることが多々ある。私たちが菊野ロッテ嬢に出会ったのも、そういった思考を重ねていた時のことであった。時分は秋の中頃で、私と由凛は朝市で買ってきた秋刀魚を三匹ほど、七輪で焼いていた。まだ幼い由凛は、元々彼女のいた家庭には無かったのか七輪をとても珍しがり、またこの秋の入りに初めて食したらしい秋刀魚に感激し大変お気に召したこともあって、買い物の際には常に、例によって実に愛くるしい高い声で「お爺さん、秋刀魚も、秋刀魚も」とねだってくるもので、些か偏食気味になるかという小さな不安はあれど、成長期の由凛が栄養価のある食品を欲しがることに対し断る意義のあるはずもなく、この時期の私たちはしょっちゅう庭先を煙たくしていたのである。由凛は鼻歌を歌って、手にしたボールを地面にバウンドさせながら(運動神経に優れない彼女の操るボールが七輪の方へ飛んでいってしまわないかと私は少々案じていた)、秋刀魚が焼き上がるのを、まだかまだかと待ちわびており、焼き加減ではなく、由凛の様子を眺めていた私はというと、之は何て暖かく平穏な日常だろうかと、酷く温和な気分であった。幾つかあった由凛の持つ問題も通過した頃で、まさに人生の安定期を想い感謝していた。ちなみに、このおよそ五分後、私はこれまでの人生で一位二位を争うほどの衝撃に襲われることになる。
「お爺さん、そろそろいいんじゃない」と、ずっと頃合いを伺っていた由凛が云うので、私は縁側から腰を浮かし確認する。「うん、確かに」表面と口先や鰭に走る線が、咀嚼の際にぱりぱりとした良い食感を呼ぶ程度良い焼き加減であることを教えていた。私が長皿と箸を渡してやると、由凛は急いで取ろうとするので、「火傷しないように気をつけなさい」と注意する。由凛は箸使いが未だ甘く、オタオタとしていたが、三匹ある内の一匹を皿に掬うと、いつのまに用意していたのかポケットの中から岩塩を取り出し、全体に降りかけてから、頭から豪快に齧った。私は猫舌気味なので熱々のものも構わず口に含む由凛をみると少しばかり心配になるが、元気に噛み、「おいしい〜」と云ってキャッキャと騒ぐ様子をみていると、はて先の心配とはとばかりに思い切り破顔してしまう。由凛と私が出会ってからもう半年が経過するが、全く私の心の関心事は全て彼女に向けられて固定されてしまっていた。
 由凛は、私の視線に気付いたのか、「お爺さんもはやく食べなよ」と云った。私は少し冷ましてから頂くので実は今頃が丁度いいのだが、猫舌というのはどこか格好悪いので、そのことは毎度由凛には悟られないようにしており、この時も、すっかり忘れていた風を装い、「熱い内に食べないとな」などとのたまいながら、秋刀魚を自分の皿に乗せた。由凛は「お塩使う?」と云って岩塩を渡そうとするが、「私は之は醤油で食べるから」と断り、縁側に置いてあった醤油を掛けてから食う。非常に美味だった。流石は今朝方北の海で捕ってきたもので、良く脂の乗った上質な秋刀魚だった。「旨いな」と云うと、由凛は羨ましそうな目でこちらを見ているので、私は察して、「もう一匹あるから、それは醤油で頂きなさい」と云い、何気なく七輪に目を向ける。そして驚いた。七輪のすぐ傍に、残りの秋刀魚を狙っている一匹の猫がいるではないか。
 成長期の由凛が食べたがっているものを、他の者に差し出す気は毛頭無い、というのが、おそらく私の意識下の最も根源にある考え方なのだろう。私は自分の長皿を縁側に置くと、慌てて近くにあった箒を手に取り、「どこかへ行きなさい。しっしっ」と云って、猫を追い出そうとした。今にも跳んで秋刀魚を取ろうとしていた猫は、それで跳躍のタイミングがずれたのか、こちらと秋刀魚を交互に見てどぎまぎし始めた。これでこのまま注意すれば取られることはないな、と私が安心したのも束の間、由凛が「だめっ。おじいさん。箒を置いて!」と云い、私はどきりとする。由凛はこちらを少々険しい色を孕んだ目で見ると、すぐに猫の方へ歩み寄り、「猫ちゃん、お魚欲しいの?」と云って笑顔になる。由凛は善意からの行動をしているつもりだろうが、猫は、今度は秋刀魚と私に加え手を伸ばして近づいてくる由凛にも気を配らなければならなくなったようで、益々焦燥の呈を様していた。私は由凛に非難されたような気持ちになり暫し萎縮した。
 八方塞の形になった猫は、悪気は全く無いのだが巧妙にじりじりと詰め寄ってくる由凛の圧力に窮したのか、意を決して七輪上の秋刀魚に跳んだ。低空の猫がぱくりと秋刀魚を口にした時、私と由凛は「あっ」と口にしたが、それとほぼ同時に、跳躍の機を焦りより読み違えたのか、踏み込みが十分でなかった猫は、余熱の残る七輪に足を触れてしまったらしく、「にゃ!」と短い声をあげると、猫らしからぬ着地で転倒してしまった。「あぁっ!」と今度は悲痛な声をあげた由凛は、猫の方へ走り寄り、その小さい体躯を持ち上げようとした。猫はしまったと云わんばかりに身を捩じらせたが、体格差から容易に絡め取られてしまった。「だいじょうぶ? 猫さん」と云って猫に顔を近づける由凛に、ばい菌や妙な病気がうつらないかと、私は気が気でなかったが、あまり猫を邪険に扱うと由凛を怒らせるかもしれないと思い、言動に注意しつつ、とりあえず近付いてみる。「どれ」。猫の足を確認するが、特に目立った火傷はなかった。
「見た感じでは、それらしい怪我はないようだが……」と私が云うと、由凛は不思議そうに首を傾げて、「でも、猫さん、痛そうだよ」と云った。由凛に持ち上げられている猫は、ウニャウニャと鳴きながら、手足をバタつかせ、なんとか放してもらおうと奮闘していた。「知らない人間に持たれているから、不安なんだよ」と云うと、「えーーっ」と由凛はこちらを向いて、「でも私、猫さん好きだよ?」と云い、猫をさらに抱きかかえるようにした。ウニャーと鳴き、いよいよ暴れ出した猫の爪が由凛の肌を傷つけるのではないかと危惧し、私は「でも、猫の方には、由凛の気持ちはあまり関係ないんだよ」と由凛を諭す。「でも、でも!」と抵抗する由凛に、私は「野良猫は妙な病気を持っていたりして、危ないんだよ」と云って、背に腹は変えられず、拒む由凛から、半ば強引に猫を奪い取った。
 持った途端、若い頃に、北方の国に住む猫好きで知られた婦人の家を仕事で訪ねた折、その家中の猫が私のまわりに集い、一様に懐いてきたことを、ふと思い出した。そういえば、動物には好かれる性質である。猫が落ち着けば、由凛が猫と戯れる微笑ましい姿が見られるかもしれないと期待して、私は猫と向き合ってみた。すると、由凛の持っていた時とは比べ物にならないほどの暴れ具合をみせたので、おかしい、これは全くたまったものではないぞと、猫に興味のあるらしい由凛には悪いが、手放そうと考えた。その時であった。
 手にしていた猫が、急激な肥大を見せた。猫などの四足獣は威嚇の際には背を丸め恰も膨張したかのような姿勢を取ることは知っているが、それとは全く無関係の、質的重量の変化があった。要は突然の巨大化だった。持っていたものが突然重くなり圧し掛かってくることで、先ほどこの猫がみせた転倒よりも余程酷く地面に倒れた私の上には、依然として重きものが居座っていた。その姿を見て、再度私は目を疑うことになった。
 口をぽかんと開けている由凛と、痛みも忘れ凝視する私の視線の先、というより目と鼻の先、私の体躯の上には、猫の代わりに成人女性がいた。碧い瞳をした、とても可憐な女性だった。それはあまりにも突然の登場で、(事実そうであったのだが)猫が人間に化けたとしか思えなかった。
 私に覆いかぶさるようにしていた女性は、痛みを堪えるように頭部を撫でると、直ぐに冷静な表情で私を見て、「申し訳ありません、ミスター」と細い声で云った。「お怪我はありませんか?」と、続けてそう訊いてくる。要領の得ない私には、痴呆者のように何度も肯くことしかできなかった。
 これが、私たちと菊野ロッテ嬢との初見接触だった。