「老人の海(2)」 2
 ◆
 さて、そうして突如現れたその女性は、私の手を誘い取って立ち上がらせ、私の服に付いた土などを至極丁寧に払い、大方元通りになったことを確認すると、私と由凛の双方へ二度会釈して、町中でぶつかった相手に謝ってからそうするように、「では失礼…」などと云って自然に立ち去ろうとするので、私は思わず玄関先まで見送ろうと考えたものの、それを否否否(いやいやいや)と思い直す。「待ちなさい」私は云う。女性はそれで振り向き、澄んだ眼の中に、家に掛けてある古い鏡よりもずっと鮮明に、こちら側一帯の景色が、まるで一枚の写真のように映り込む。私は素っ頓狂な表情をした私をその中に見る。じっと、見る。
 私はその時、無意識下の思考に勤しんでいたように思う。おそらく時間はそれ程までには掛からなかっただろう。つまり私は一拍子遅れて、事態を理解した。「あっ」と、合点がいった。決め手となったのは、おそらく浮世離れした彼女の瞳だろう。
 とはいえ、いや、理解といって良いものかどうか判らない。あるいは拒絶が伴ったせいかもしれないが、私は気付いたことを口にすることを避け、まごついた。(お嬢さん、貴女、ひょっとして猫ですかな?)そんな莫迦げた科白があるかと思った。あるいは猫の女性は、変わらずこちらを見ている。どうしようかと思う。すると、私の背後にいた由凛が、はぁーっと、溜めていたらしい息を大きく吐くと、「お姉さん、猫さんなの!?」と叫んだ。そして私の心内が一転し様相を変えた。でかした、と私は由凛を抱きしめたくなった。由凛が言霊にすることで、私の中にあった疑惑は消え去り、私は過去の事実を容認し切り、ひたすらに「うむ」と思った。未だ倒錯爺ではないつもりである。
 由凛はターッと女性の傍へ駆けると、「どういうこと? ねえ、お姉さん! 私も、猫になれる?」と云った。私は、そのような疑問を第一に抱く由凛を可愛いと感じつつ、切実にそれは無理があろう、と考えながら、さて、これは面妖なことになったと、硬い体を動かして、兎角、私も何か言おうと思った途端、その場を揺るがすほどの低い腹の虫の音を聞いた。見ると、女性の視線は、何時の間にやら私たちではなくて、地面に落ちた秋刀魚に向いているようだった。「空腹ですか?」思うより先に言葉が出る形になった。彼女はそれで亦私の方を見て、静かに首を振った。私は細かい所作から彼女の中に葛藤を見出した。つまらぬ遠慮をしているのだ、と私は直感した。「食べていきなさい。魚ならたくさんあるんだ。余るくらいに」。しかし彼女はまた首を振った。「折角のお話ですけれども、けっこうですわ、ミスター」。猫の癖に、鶯の擬人のような声で云う。それで、うぅむ、どうしようかと私は考えた。事情・訳・背景その他は後にして、何はともあれ彼女にご馳走したいのだが、如何なる面にせよ、若い女性(少なくとも今この時点では)に強要することは、強情で格好の悪いことだと思った。全く、この世の中、女性の矜持ほど優先せねばならないものは他に無かろう。あまり強く勧めるのも良くないなと、しかし、そう考えた時、グヌゥウゥ〜と、今度は獣の唸るような音が響いて、面食らう。彼女の腹の虫の二度目の咆哮であった。冷静な猫の女性は、さすがに罰が悪そうに目を背けた。「い、いまのは…」私が云うと、「違いますわ、ミスター」と女性は素早く否定した。「今のは…こちらの小さなミスのものでは」。彼女はそう云って、ねぇねぇと騒ぐ由凛を向く。「ミス?」と由凛が首を傾げた瞬間、再度彼女の腹が鳴った。彼女は硬直し赤面した。
 強要しよう。私は思った。
 由凛は女性の腰にがっしりと腕を回していた。傍から見ても離すのには骨を折ろうと判る。
 彼女が再度八方塞の形になった後、駄目押しのように腹の虫はまた鳴いた。
 ◆
「ご馳走さまでした」しかと手を合わせ、彼女はそう云った。
 彼女は独自で其れを美学として研鑽したのではないかと思われるほど優雅な振る舞いで、私の粗末な馳走を平らげた。内容は、栗御飯に秋刀魚の蒲焼、あさりの味噌汁に漬物を三種ほどである。由凛も手伝わせての調理の最中、彼女は何度も断りを申し立ててきたが、その度に私がつっけんどんに「座っていてください」と云って、いずれ匂いが食卓まで届きはじめると、とんと黙ってしまった。私は非常に不憫に思ったこともあり、拙い腕によりをかけて用意をした。腹の事情は余程のことと見て盛りは大目にしておいたが、之は正解だった様子であり、箸を置いた際に、彼女の顔に浮いた満足の表情を、私は見逃さなかった。
 由凛は彼女の食事中もずっと、様々な質問をしており、興奮からか要領の得ないことも散見されたことと、段階は分けるべしという私の考えから、由凛の入れたお茶は美味しいから、私たちはそれを頂きたいなと云うと、単純で可愛いもので、とてとてと茶を沸かしに席を立った。
 彼女と食卓越しに対面しながら、私は幾分か、いや、殆ど普段通りに落ち着いていた。そして、落ち着くと、次に訪れたのは、酷い好奇心だった。永く生きていても、curiosityというものは尽きぬらしい。
 彼女は無表情であったが、無愛想の気のあるものでは全く無かった。むしろ逆で、私は静かな彼女の佇まいから、感謝の念を感じ取った。現に、一寸後、彼女は「何とお礼申し上げたらよいのやら。感謝致しますわ」と云った。またも、鶯の鳴くような声。「いえ、全く構いはせんですよ。少々、食料を買い置きしすぎていましてね。寧ろ、助かるくらいです」。彼女は少し黙ってから、こう返した。「これほど美味しい膳は、思い出せないほどに久しぶりでしたわ」。「秋刀魚が、お好きですかな」。「とっても。ミスター」。彼女は微笑んだ。そして僅か伏せる。おそらく、先ほどのことを気にしているのだろう。つまり、猫でのことを。
 彼女は碧い瞳こそしていたが、外国人の見た目ではないのに、私への呼称の「ミスター」は、彼女が使うために生まれた言葉なのではないかと思うほどに、彼女の舌によく馴染んで発せられていた。
 雰囲気、立ち振る舞い、口調、どれを取っても不思議な彼女は、猫なのである。そう考えると、真、感慨深い。私は唸った。
 いずれ、由凛が戻ってくる。最初の練習の甲斐があって、ここ最近ずっと、由凛は茶を入れるのに失敗したことはないので、今回も大丈夫だろうと特に気を配らなかったが、盆の上に乗せた茶を注意深く運んでくる由凛の姿を見ていると、興奮状態であることを考慮して、運良く問題はなかったが、しっかり監督しておくべきだったと思った。(切り)