短篇 非単調ハッピーエンドは自作できない話

『風のふたり』
 1980年の春に宮崎県で生まれた千野崎美里は僕が覚えている限りずっと生まれ故郷を出たがっていた。僕が宮崎に越してきたのは小学校3年生のときだから、少なくともその頃からだ。一般的な子供は未来に対する明確なビジョンなんてものは持っていない。まして自分の生まれ育ってきた場所を飛び立とうと思うなんてことは早々ない。そう考えはじめるのは自分の将来を線形としてみることが可能になるせいぜい中学生の終わりくらいからなもので、なのに小学校中学年の時分から田舎を出たい上京したいと考えていた美里は当時の小学生からしてかなり浮いた存在だった。でも美里は別段仲間はずれにされたりはしていなかった。何せ美里は垢抜けた子供だった。美里の体型はスレンダーで脚がすらりと長くて、肌こそ焼けていたものの笑った時の顔に田舎臭さは全く無くて、見た目だけでいえば都会の子供と何ら違いはなかった。むしろそれ以上だったといってもいい。肩甲骨くらいまで伸ばした髪を☆型の髪留めでまとめているのもクールで、他のこの地の小学生はおろか、都会から来て研鑽された目を持っているはずの僕にも美里は特別に可愛くて格好良く写った。要は僕は一目で美里に惹かれていた。そして美里も僕に興味を持った。というより、僕のプロフィールに興味を持った。
小井川くんてほんに東京から来たと?」
 当時まだ標準語で話そうとしていなかった美里は朝のHRで自己紹介を終えた僕のところに真っ先に来てそう言った。ぼくは美里の風貌にどぎまぎしながら何度か肯いた。すると美里は飛び跳ねて喜んだ。「東京ん話聞かせてね!」。美里は本や雑誌以外で東京について知る機会を得たことを喜んでいた。僕らはその日並んで帰った。そして次の日もその次の日もそうして、僕らは仲良くなった。
 僕と美里の家は徒歩30分くらいの距離にあって、その間には田んぼくらいしかないから、自転車を使えばすぐだった。僕は休みの日にはしっかり早起きをして朝御飯をちゃちゃっと食べると僕が東京から持ってきた宝物のうちのひとつの赤いマウンテンバイクを走らせて美里の家まで行った。美里の家のすぐ裏には夏目山という小山があり、その斜面から笹の葉がぴょんぴょん生えて美里の家の方面に飛び出ていて、ただでさえ下から伸びまくりの草たちの存在も相俟って、まるで自然に襲われているかのような印象を僕に与えていた。僕が迎えに行くと美里はいつも家の玄関近くにある大きな石の上に腰掛けて鼻歌を口ずさんでいた。その姿を見るたびに僕は宮崎に来て良かったと心底感じ入っていた。僕は東京に行きたがる美里とは正反対に、宮崎でののどかな田舎暮らしを気に入っていたのだ。でもそんなことは美里には言えなかった。美里の前では、僕も親の都合で仕方なしに宮崎に越してきた、東京の好きな少年でいた。

 美里は予告通り僕に東京の様子や東京の小学生の話をよく強請った。僕の小さな脳はそれで猛烈な勢いで回転して記憶をひり出して口という馬車に鞭を振るった。僕が東京にいたのは8歳のはじめまでだ。そんなにたくさんの印象強い記憶があるわけではない。でも少しでも前回とは違う新しいことを言わないと美里の興味の視線を保ったままにできないことは理解していたので、自然僕は必死になった。必死になって東京と宮崎の違いを語った。幸いにして僕は日記をつけることを習慣にしていたから、それを頻繁に読み返しては過去の情景を思い出して、今見ている宮崎との違いを語るのだった。しかしこれのハードルはどちらかというと低い方だったように思う。なぜなら美里はぼくの拙い語り口から自由に想像で補填をしてくれて、つまらない話でも自分で広げて満足してくれていたからだ。たとえその中に東京という地の明らかな誇張があっても僕は指摘せずにいた。まして日記を見せることなんて絶対にしなかった。僕には実感として二つの土地がそれぞれに持つ性質の決定的な違いがわかっていて、それは善し悪しではなく、単なる相違でしかなかったのだが、美里の中では常に東京が善く、宮崎は悪かった。でもそれで良かったのだ。僕という存在が東京だったから、美里が東京を良いと思うほどに、同時に僕にも惹かれていけば、僕個人にとってそれ以上のことはなかったのだ。僕は子供ながらにそんな見解と打算をして美里に付き合っていた。僕はまさしく東京の子供だった。
 美里が僕に東京を求める反面、僕は美里に、うざったくない程度に配慮して宮崎を求めた。僕らがよく入っていたのは山の中だった。自然のフィールドに慣れていない僕を尻目にすいすいと山を駆け上がっていく美里はとても格好良くて、僕がしきりに褒めると、美里は照れたように笑った。夜はふたりで星を見上げた。宮崎は東京と違って星が鮮明にうつった。僕は理科が得意だったから、星座の知識はあって、あれはてんびん座だ、あれははくちょう座だと指を差して言ったが、そのたびに美里は自分で見つけたオリジナルの正座を教えてくれた。中には納豆座だとかかっちゃん座(同級生の勝俣くんのことだ)だとか、意味のわからない星座もあって、僕を笑わせた。

 そうやって何度も会って話をする内に、僕らの持つ社会的なステータス以前に、僕らが人として相性がいいことにも気付きはじめる。僕らはよくお互いを笑わせあった。平時では常に大人ぶりたい美里も僕の前では茶目っ気のある幼い女の子でしかない一面をみせてくれた。僕は美里の対人表現の殆どがこの土地で得た緩慢な人的環境から来るものだと幼少期から見抜いていたし、そのことに気付かずにいる美里を可愛く思っていた。美里の善いところの多くは地と環境から受け継いで形成されていたのだ。しかし、それは負の方向における性質においても亦そうだった。美里は人並外れて強い女の子だった。だからこそあの程度の淡い示唆で済んでいたのだろうと思うが、僕は美里がふとした時に見せる自身の成り立ちや肢体に対する、自虐的とも投げやりとも言える態度を示すこともまた、見逃してはいなかった。そして僕はそんな美里の無意識な発散行為を度々発見しては思慮していたのだった。

 さて、僕らの小学校生活はとても平和だった。いつも二人でいることからクラスメイトにからかわれもしたが、ふとしたときにちょっと茶化されるくらいで、いじめの前の「いじり」にすら達しない程度のものだった。それは中学にあがってもそうだった。むしろ、まわりもつがいになる子達が増えていったので、冷やかしの数は減ったくらいだった。僕の短い都会感覚からすると、この年の少年少女が抱く性的反感の程度にしては、殆どあり得ないくらいのおおらかさでもって安定した異性関係が形成されていたのは、たまたま運が良かったからか田舎一般のものなのかはよくわからないが、とにかく僕も美里も助かった。僕らは外部干渉によって変わることはなかった。変化は内部、つまりは僕ら二人の内側からしか生じない状態にあった。
 そしてはじめて目に見えて変化が訪れたのは中学3年生の時だった。美里の中で既に完全にニュートラルと化した僕の持つ都会性が薄れたことで、また、先に書いたように、将来についてとにかく具体的に考え始める時期が到来したことで、美里の上京欲求は抑えられないものになっていたのだ。

 ☆

「辰巳はどっちがええと思う?」ある夏の日の放課後に美里が投げかけてきた疑問は美里本人にとって以上に、僕にとって重要なものだった。美里の座る机の上には一枚の用紙があった。美里のスカートで印字が伏せているが、『進路調査』と書かれたA4紙だ。
「後者」僕は即答した。この答えしかないと思っていた。
「そっか……」すると美里は顔をもたげた。そして紙を手に取ると消しゴムで文字を消して、新しく鉛筆で書き記してから、「辰巳が言うんなら、そうしよ」と、自分に言い聞かせるように口にしてから、教室を出て行った。担任の田辺先生のところに出しに行ったのだろう。
 それまで腕を組んで格好つけてロッカーに背を任せていた僕は、美里の姿が見えなくなると、脱力して地べたにしゃがみこんだ。実際、そうしないとやっていられなくらいに、その時の僕の気分は参っていた。美里の示した二択は以下のもの。つまりは「服飾の高専に進学する」か「大学受験で上京する(地元の高校に進学する)」かだ。この二つのどちらがいいかを美里にきかれたとき、美里が上京するか否かではなく、既に上京するというのは決まっていて、その手段をどうするかで迷っているのだと知って、僕は焦燥した。僕は自分と美里があまりに仲が良いために、そして向こうにとってもそうであると確信していたが故に、その上京欲求も昔に比べて薄れつつあったのではと勝手な想像をしていたのだ。同時に僕はすっかり宮崎の土地が好きになっていた。そして美里とも別れたくなかった。僕の希望は高校進学で、地元の大学に進んで、卒業したら市で役所の仕事に就いて、休日は今いる家の裏の田んぼを耕す副職をするつもりで、そしてゆくゆくは相性の良い女の子と結婚して――と、そのビジョンは容易にして安定していた。僕はそんな平和な将来を手放したくなかった。
 少しすると美里は戻ってきた。夕焼けで赤く染まる教室と美里の制服姿。僕がとにかく今絶対に失いたくなかったのはこの光景で、だから僕は前者の選択肢だけは速攻で除外した。東京の高専に進学することだけは避けてもらいたかった。とはいえ、それを抜きにしても、前者は薦められなかった。美里は小学生の頃から愛読していたファッション雑誌の影響で服飾にも興味があるようだったが、それは都会への興味の文字通り服属として付いてきたものであり、美里のやりたいことの本質ではないだろうと僕は思っていたからだ。
「帰ろう」
 美里がそう言って僕はうなずき、スクールバッグを投げてやる。並んで教室を出て、下駄箱で靴を替えて、自転車で共に帰る。長く繰り返してきた習慣。学校から僕らの家まで伸びる小川の流れの早さも、夕焼けに染まる水面も何も変わらない。遠くで農作業をする婆ちゃんたちの様子も、時折目の前を通り過ぎるヤンマの数も変わらない。変わろうとしていたのは昔から此処を出ていきたいと思っていた美里だけだ。
 僕は自転車を漕ぎながら振り向いて美里の顔をみた。中学にあがってから出来るだけ標準語を使い出した美里。髪は伸ばし続けて今は腰まである美里。この一年でほんの少しだけ口数が減っておとなしくなった美里。でも僕らの距離感は変わっていない。少なくとも僕は変えていないつもりだ。
 僕は自転車を停めた。続けて美里も停まる。僕らの家の分岐点はもう少し先だから普段ここで停まることはない。「たっちゃん、どうしたん?」不思議そうに僕を見つめる美里を僕は引っ張る。引っ張って、顔を近づける。そして至近距離で美里の瞳を見つめる。大きくて輝いている美里の瞳。そうしていると美里は徐々に涙ぐむ。僕も危うく涙ぐむ。美里も顔を近づける。僕が腕を広げると美里は収まるようにしてうずくまってきた。これで僕は理解をした。美里も僕と離れたくない気持ちはあるのだと。でも美里は出ていきたいのだ。どうしてだろう?
 昔から美里はその質問に答えてくれない。というより、「自分でもよう分らん」といって困った顔をしていた。僕はそれを美里の本心だと知っていた。そこで僕は、美里の幼少期に植えつけられた環境による価値観が美里をドライブさせたが、その環境自体は今は霧消したのだと考えていた。おそらくこれは正しい。美里が抱えていた問題はその根本ごと消え去って、形骸として彫り込まれた価値観だけが残ったのだろう。そしてそれは僕が美里と出会って一年後に亡くなった美里の叔父と何らかの係わりがあるだろう。想像を想像で補完する形になってしまうが、しかしおそらくこれも正しい。
 美里の上京したいという姿勢に酷く、本当に酷く従順で懸命な美里の実父の、情けない程強烈に罪悪感の篭った娘への眼差しと、昔から美里が垣間見せていた影の孕んだ様子とを鑑みるに、僕は片親の美しい少女である美里と地主だった美里の叔父と借金繰りに頭を悩ましていたが叔父の資金援助により復帰した美里の実父(叔父の弟)との間に過去あったかもしれない凄惨な関係性について踏み入ることは出来ただろう。しかし僕は直感的な予感から、今までに一度もその話題に触れたことはなかった。美里は僕にだけはそれを知られたくないと思っている、と思ったからだ。でも、僕の本心としては踏み入りたかったのだ。そして美里のことを言葉で体で守ってやりたかった。たとえ諸悪の根源が既に消え去っていたとしても。たとえ雄雄しさ故に愚直であったとしても。そうすることが僕が美里の傍に居続ける以上発散されるべき僕の衝動としても正しいように心の底では思っていたのだ。でも結局は今の今まで手を出さないできた。そして今僕の足場はこの土壇場でぐらぐらと揺れ動いている。
 常に美里に求められるような存在でありたい。美里がそうであってほしいと思う人間像でいたい。
 僕は初めて美里と出会ったときからそう考えていた。これは滅私だろうか? それとも我欲だろうか?
 そして、その考えは果たして本当に僕ら二人を幸せにするものだっただろうか?
「たっちゃん?」
 理由はわからないが、美里は最近になって僕のことを辰巳と呼ぶようになっていたが、今でもふとした時は昔ながらの渾名でたっちゃんと呼んでくれる。美里は抱きしめることをやめようとしない僕を不思議に思ったのか、僕のことを何度も呼ぶ。「たっちゃん。ねえ」「たっちゃん」「たっちゃん、ったら。ちょっと、一体どうしたんよ?」。青春の一ページではあるがよくよく考えると恥ずかしい光景であることに気が付いたのか我に戻って笑い出す美里のことを僕は離そうとしない。美里に関する決心はもうとっくについていたが、出来るだけ長くたっちゃんと呼ぶ美里の声を聞いていたかったからだ。僕は美里にあだ名で呼ばれることを好いていた。他意はなかった。あえて言うならば、今後僕に訪れるだろう氷河期に備えて、暖かい残滓を欲していたのだが。

 僕は暫くして美里のことを離し、「ずっと髪のにおいかいでた」と言っておいて場を茶化して、「ヘンタイ!」と笑って叩いてくる美里のことを想い、自分の進路を変更することを止める気持ちを強固にする。僕はもう仕方ないからバイトの量を増やしてさらにお金を貯めて父さんのことも説得して美里と一緒に東京の大学に進学しようかなと折れかけていた自分の心を正すために、そして何よりも美里を想う自分のために、つまりは僕らふたりの幸せのために、逃げずに向き合おうと考える。脱力して参っている場合なんかではないのだ。
 その後、僕らは自転車を引いて並んで歩きながら、過去にも無いほどに様々な話をして帰った。その中の多くは他愛もない昔話だった。でも僕らにとってはかけがえのない思い出だった。僕の目の裏には美里と見たこの地の景色が張り付いていて、それは何度再生させても飽きることも褪せることもない大切な記憶だったのだ。

 そしてその日の晩、僕は美里の死んだ叔父の墓を破壊した。粉々に破壊し尽くした。もう、完膚なきまでに、全てをボロボロにした。僕は数年間溜めた僕の激情を解放した。解放し尽くした。
 満点の星空の下、民家から離れた墓場に散らばる石灰にも似た残骸の山の傍で、僕は嘆息していた。嗚吁、と声に出して言ってみたりもした。この行為に因る弊害はたくさん現れるだろう。でも僕はこうしないと、自分と美里との距離感を掴み続けることができなくなるかもしれないという恐怖に打ち勝つことはできなかったはずだ。そしてそれは何にも代えられなかったのだ。だからこれは必然だった。そう僕は納得していた。荒い呼吸を重ねている内に夜が明けていた。

 ☆

 それから半年が経過し、中学を卒業して、美里は東京の服飾専門学校に進学した。僕は地元の高校に……大抵の同級生が進学する県立の高校に進学した。
 千野崎秀雄(美里の叔父)の墓を僕が深夜に工場から盗んできたドリルで破砕したことを知る者は、美里のほかにいない。近所の石材所でバイトしているのは僕くらいで、ドリルを器用に扱えるのもこのへんだと僕くらいなものだろうが、それ以前に直感として僕の仕業だと理解した美里は、ではどうして僕がそのようなことをしたのかという疑問に至って、――つまり美里が持っていた自らの叔父との関係性についてを僕が知っていたことを知って、僕と口をきかなくなった。それどころか同じクラスの矢島という、石材を作るバイトをしている癖にひょろい僕とは違って小中とずっと野球をして鍛えたガタイの良い短髪の男と仲良くなって付き合い始めすらした。その行動の由来は様々な感情の集大成だろう。大半は僕に対する怒りかもしれない。でも僕は甘んじて受け入れた。僕はこれからの事象は全てを受け入れる気でいた。
 僕はもう子供じゃない。ましてや東京でもない。宮崎に生きたいと思うひとりの青年なのだ。そして美里のことをずっと想っている。

 ☆

 さて、想いに追随すべきなのは願いでも祈りでもない、実力だ。腕力である。僕は美里のことを想っているが、それだけでは駄目なのだ。僕は高校を卒業して順当に県立の大学に合格すると、はじめの長期休暇で東京に出た。目的は美里ではない。世の中を知るためである。僕は小学校の途中まで見てきた東京と、身長も高くなり知能も大分マシになった今の目線でみる東京とが大分違うことに驚かされる。美里は上京してはじめて見る大都会が僕の証言と違っていることに憤って、また僕に対する怒りのボルテージを上げているかもしれない。そう考えると可笑しくて僕は独りでも笑うことができた。
 僕は東京を渡り歩いた。東京と宮崎の違いと、両者を僕の元に手繰り寄せるための糸口を探していた。僕は東京内の主要な場所の表と裏と外と内とを丹念に観察して探っていった。僕の欲しているものは目に見えないものかもしれないので、抽象的に考えながら物事を捉えていく。そしていい加減疲れてきたところでようやくビンゴを見つける。当たりは僕の叔母の話の中にあった。東京に住む母さんの姉である叔母は代官山に小さいながらも立派な料亭を持っていて、僕はそこできちんとお金を払って懐石料理を頂いて、料理の中にヒントを見つけ、叔母さんに話をしてみて、どうもこれはビジネスとして使えそうだということを知る。僕は宮崎に戻って、中学の時からこつこつ貯めてきた貯金残高を確認し、経営学部の友だちにその話をして具体的にプランを組み、公認会計士を雇い、近所の主婦や婆ちゃんたちにも話をつけて、彼女らを従業員とする正規の株式会社「はがくれ」を創立する。「はがくれ」は宮崎の大地で育った葉っぱ――笹の葉や紅葉、柿の葉など――を収集して、東京の料理店に、他のルートより遥かに割安で提供をする。
 葉っぱ。彩を重視する日本料理店が存外にやりくりに困るのがこの葉っぱだ。添え物として使うのが大半だが、使い捨てていく量を考えると購入費は馬鹿にならない、というのが叔母の言い分だった。まして東京に住む経営者が自分で葉を取りにいくわけにもいかないだろう。となるとやはりどこからか買うしかない。東京の日本料理店の数は膨大だ。すると自然と値段も高揚する。ならば両方の地を手にとってすべきことは何か。僕が使えると思ったネタはこれだった。
 有限会社「はがくれ」は宮崎を東京の範囲まで伸ばして優遇する村社会性を発動している。村社会というと閉鎖的な物言いだが、これは地域活性の貢献に確実につながる。何故なら「はがくれ」は宮崎の県産品を多く扱う店を優先して格安で葉を売るから、少ないながらも宮崎県自体の経済力の向上に貢献するのだ。「はがくれ」の立ち上げ初期はまごつくところも多かったが、やがて東京の飲食店コミュニティで話題になって、従業員たちの葉狩りの技術力も高まると、会社は安定期に入り始める。そしてその頃には大学を卒業するくらいの時期にもなっている。能書きは社長であり現に羽振りも悪くはなくなった僕は大学で仲良くなった女の子たちに言い寄られるが、いつもぎりぎりのところで回避をする。僕にも人並みに性欲はあるのでたまに途轍もなく危なくなることもあるが、そういう時は千野崎家の前に来て、美里の好いていた巨岩の上に腰かけて一息つく。そして一面に広がる星を見る。
 僕に出来ることはこれくらいのものだろう。僕は自分が納得するために美里の暗い過去の跡地を壊して、代わりに宮崎の色をすっかり帯びて大きくなった美里が十代の半ばにして東京へ行くのを止めることも追いかけることもしなかった。そしてこの土地で着々と商業をしてお金を増やしている。美里が如何なる問題を抱えて戻ってきても大丈夫なように、地力を伸ばしている。
 あとは座して天命を待つばかり、つまり賭けの結果を待つばかりだ。僕は美里がいつか戻ってくることを願っていた。彼女の名前通りこの美しい里に、彼女がいつか出戻ってくることを。とはいえ、本当のところでは別に戻ってこなくったっていい。僕は美里とコンタクトを取っていないから、彼女が今どういう状況にあるかは分からない。一応目を通している主流のファッション雑誌に美里の名前が載っていないことは確認しているが、デザイナーネームを作ってやっているならばブレイクしていても僕に確認のしようはない。美里は多才な人間だったから、そこまで興味がなくとも成功することは十分ありうるし、そもそも服飾は美里の本質ではないだろうという僕の判断が間違っていた可能性もある。あるいはデザイナーとしての道を諦めて誰かいい男を見つけてうまくやっているかもしれない。でもそうならそうで僕が賭けに負けて自分の幸せを掴み損ねたというだけの話で、美里が幸せならばそれで構いはしないのだ。
 僕は岩の上で星の下で鼻歌を口ずさむ。ずっと前に美里に薦めたボブ・ディランの曲。小学生の時に有名なアーティストがカバーをしてドラマの主題歌かなにかに採用されて古いながらも二度流行った曲だ。当時は歌詞の意味が抽象的に過ぎてよくわからなかったが、今ならばわかる気がした。彼はただ風に靡き・其処に在り感じることを慶んでいたのだろう。
 唄いながら僕はネクタイを緩める。いつか彼女は僕のところに戻ってきてくれるだろうか。そうなったならばきっと良い。そう想って、ただ待ち続ける。唄い続ける。風の中で、僕は長い間、あるいは起こるかもしれないとても素敵な空想を止めないでいた。遠い記憶の中では、幼い二人が、互いを追いかけるようにして辺りを駆け回っていた。 (完)