文化村のフェルメールからのラブレター展に行ってきました。
 個人的メモを交えて少々書いていきます。テル=ボルフ『眠る兵士とワインを飲む女』「結ばれぬ?(個人的にはあまりそういう印象を受ける絵ではなかった)」。デ・ホーホ『トリック・トラック遊び』「偶然に基づくゲームに興じる姿を描くことで失敗と堕落の時代を象徴(基本的には耽美は排除されていました。この絵のほか、たとえば次のやつでも)」。ヤン=ステーン『アントニウスとクレオパトラ』「退廃的な恋愛。虚栄は美徳ではないことを描く(クレオパトラの美、を後世から美学的に見たとき、大成するか否かに焦点をあわしていいものだろうか。それはアントニウス然り。退廃性が持つ美しさもあります)」。ヤン=ステーン『老人が歌えば若者は笛を吹く』「ステーンの家庭とは乱雑な家庭のことを意味した。タイトルは、若い者は常に年長者を手本にする、という諺から(今回つよく思ったこと。ある意味では当たり前なことですが、それにしてもこの国では諺や慣習から生まれる絵というものが非常に多い。今回の展示はラブ”レター”にライトを当てることで人と人との繋がりを暗示していますが、その姿として最も普遍的である家族というものは、ほかでもなく土着の中でこそオリジナリティを強く示することを考えると、ここでステーンの絵も持ってきたことにはなにかしらの意味を感じ取れます)」。
 手紙について語ることで当時のオランダ人と現代の人々との決定的な文化の乖離を表現していますが、そういった慣習を現代人がなくしてしまったことは、家族や繋がりについて考えさせた2011年に対し強い意味を持つように考えます。 簡単にいえば、電子メールが奪っていったものは果たして、ということです。常日頃から俺個人も思っていることですが、現代人は発言に対する一回性がありません。たぶんあまりペンを持って書くことがないからだろうと思います。ペンで書いたものはタイピングと違って消すのが面倒です。普通は戻らないで綴っていくものです。彼らは今は本当にそういったことが苦手みたいです。 twitterの普及で電子の海に発言を放り投げていくことで、ことばが本来持つ効力も薄れていくことが何より危惧されるべきいことだと俺は考えています。 続き。ヨハネス=フェルメール『手紙を読む青衣の女』「画中に描かれた地図は、多くの場合恋人の不在を仄めかすモチーフとされた。当時(覇権がイギリスに移行する直前のオランダですね。航海法発布の前後くらいです)、船上や海外で働くことを余儀なくされた男たちの安否を伝える手紙は重要な役割を果たしていた。しかしアジアへの手紙の返事を受け取れるのは少なくとも2年後のことだった(強張った腕だけで感情を表現しているのが奇麗でした)」。ヨハネス=フェルメール『手紙を書く女と召使い』「激しい意味の隠喩を持つ絵画と床に放られたボツになった手紙を描くことで、一見穏やかな絵の中に潜む劇場を顕している(単純に、果たしてそんなに簡単なものか、と思いました。でもきっと、そうなんでしょう)」
 他に気になった絵。ヤーコブ=オホテルフェルト『ラブレター』。フェルディナント=ボル『本を持つ男』(これはいくら理由を考えても惹かれた出てこない。なぜ)。ハブリエル=メツー『窓辺で本を読む女』「メツーの故郷である大学都市ライデンの知的環境とも結び付けられる(『知識』の伝統的な擬人像。なるほど)」。ファン=オスターデ『執務室の弁護士』『酒場で読み物をする男』「オスターデは法律に関わる主題の作品を少なくとも20点描いたといわれている。当時はしばしば批判的に描かれていた弁護士を誠実で公正な資質を兼ね揃えた人として描いた。蝋で封印された手紙が安心感を齎す」「新たな法律における文書の重要性を描く(随分と実学的なところに焦点をあてています。オランダで法といえばもちろんグロティウス。「当時の人々の生活に関わる法の在り方に関心を向けている」とありますし、元々そういった面に意識の高い人々なんでしょう。なにせ画家が加担しています)」

フェルメールへの招待

フェルメールへの招待

 俺はフェルメールは「地理学者」の絵が特に好きだったんですが、今回のラブレター展のテーマ性に当てられて、手紙を読んでいる姿にも感銘を受けました。まとまりがあって非常に良い展覧会だったのではないかと思います。近くに住まいで未だ行っていないという方はおすすめです。好きな音楽を流しながらじっくり観てみるといいと思います。いえ、もちろんそれはおしゃべり好きの婆さんたちの会話をシャットアウトするための音楽ですから静かなときは外して大丈夫です。 ほんとね おばあさんたちね 5秒黙ったら召されるのね きっと よく話す