◆(修)

 …なんか
 バカの相手できなくなったな と思いました!
 かなり得意な分野だと思っていたのでこれは衝撃です
 良いか悪いかでいえば 執着することが一切なくなった分、どちらかというと良いことな気もするんですが、ただただ驚きました。気分の問題でしょうか? 違う気がします。ので、ある程度の扱き下ろしの要素が混じった記事を公開することの副次的効果まで考慮しつつもそれでも残しておこうと思います。
 発端はある女の人とのメールなんですけど(性別重要です。確かに考え方に違いがあります)、相手が抽象と具体を混合するのと、「多分これで煙に撒けるだろう」と思ってした言い方というものを完全に見透かしてしまったとき、これは無理だと思いました。
 換言とかメタファーとか、つまりは抽象物と具体物の対比というのは、実際にそれが置き換えられるかどうかについては物凄く厳密に考証しなければならないところで、そこを適当に使われると打つ手がなくなります。「コンセンサスの度合い」について、たとえば「戦争反対」という概念だと、おおまかなところで大体の合致はするけれど、条件を切り詰めていくと(具体化していくと)、本当に100パーセントのコンセンサスは得られない、という言い方をするならばわかりますし、他の抽象物についての話でも応用が効くんですが、それを具体物についても100パーセントの合意が得られないことに飛び火をされたら、こちらとしては話の前提が覆ってしまうのでどうしようもないんです。赤ちゃん言葉で話せといわれた気分になります。
 また、この場合おれが年下だったんですが、年下に穴のあいた話を論破(あまり使いたくない言葉ですがこの場合は確かにこれが適当です)されて、そこをさらに年上というアイデンティティで乗り切られた場合にも、こちらとしては打つ手はありません。「まぁお前はまだ若いからな」の類です。「これ以上話すのはメンドイ」の言い換えならばこちらも汲み取って十分に引けるんですが、否を認められないからそうやって逃げられたのでは困ります。別に糾弾しているわけではなかろうに!
 その相手は自分のことを人から呼ばれているあだ名で呼ぶんですが(最近こういう女性多い気がします)、これは明らかにそこの混同を招く原因になっているんでしょう。物凄く納得した話なので丸ごと使わせてもらいますが、『自分のことを「俺」「ボク」「わたし」などの一人称で呼ばない人間は客観思考ができなくなる。何故なら人に呼ばれる名前で自分を呼称した場合、(この場合便宜的にあだ名を「ちくわ」として)、自分以外の人にとって「ちくわ」、自分にとっても「ちくわ」だと、自分という概念が「ちくわ」ひとつに固定されてしまい、そこには主体しかなくなる。しかし一人称を用いれば、自分以外の人にとって「ちくわ」、でも自分にとっては確固たる「私」として判定できる。「ちくわ」「自分」の双方を汲み取った上での客観視ができる。「ちくわ」ひとつしかない人間からは客体は失せていく。一般に自分のことを自分の名前で呼ぶのはせいぜい小学校低学年までだが、よもや高校を出ておいてそれではあまりにもおぞましい』。完全に同意です。冗談だとしても使うべきではないです。そもそも付属効果なしにしてもおぞましいというのに…
 自分のこと名前で呼んでいいのは瀬川泉ちゃんだけなんだよ!!!!
 ちょっと前に「子供のマイナス」「大人のマイナス」から切り離されて「子供のプラス」「大人のプラス」のみを吸収して扱える人間が好ましいと書きましたが、今回の件はまさしく「子供のマイナス」です。捨てましょう。じゃんじゃん
 そして 馬鹿の相手ができなくなった と書きましたが、これはつまり、そういう「子供のマイナス」を受け流せなくなったということでもあります。というより、実際の子供が「子供のマイナス」をもっているのは当然なので、たぶん実際の子供の相手は簡単なんですが、見た目は大人なのに平然と「子供のマイナス」を持ち続けていることが怖い、耐えられないといったほうがいいんでしょうか。
 老けた子供なんて世界で一番醜いじゃないですか
 他にも、何かを評価する際には主観と客観は完全にわけなければならない、とか、「なんとなく」が絶対に許されない場面もある、とか、色々ありますけど、破壊力が一番あるのはその「抽象と具体の混同」です。おそらく。世界自体が抽象と具体だけで出来ていますから、最も基本的な部分が欠落していると考えていいです。
 twitterのトレンドにあったので読んでみたんですが、ネットで少々「嫌われる男の話し方」が流行ったみたいですね。噛み砕いていったり要旨をまとめたりするのが興ざめな場面が多いようです。これに絡めて言いたいんですが、別に俺も全てに関して厳密なトークをするわけでは決してないです。現に俺と話したことある人ならわかると思いますが適当な話しかしない日もあります。というよりもそれが大半です。そりゃそうです。いつもいつもこれをXとして〜これをYとして仮定して〜、って話していたらそれは変態です。いや俺は変態ですがその類の変態ではないつもりです。
 俺が言いたいのは「大は小を兼ねる」ということです。つまりある程度のディスカッションが必要な場面で客観性を用いた話し方をするのは重要ですし、日常会話で崩した話し方をするのも重要ですが、おそらく難度(なんてないと思いますが)のことから考えて、前者は後者を包括するので、少なくとも前者くらいできるようになっておけば? という話です。というより、出来なくては困ります。厳密に話さなければならない場面というものは確実に訪れます。問題はそこで後者が出てきてしまうことです。前者は常にしたためておかねばなりません。
 これには正常な嗅覚の話も大切になります。その場に判事がいるようなわかりやすい厳密性をもった場面なら話は変わりますが、それ以外のところでは、特に二者しかいない場面では各々の判断に頼る他ありません。ただ、それこそコンセンサスという単語が飛び出るような会話になれば、そこは厳密に行くしかないですし、それは動物としての嗅覚で理解できると思います。そしてそれが正しい、世間一般で言われる迎合とは違う「空気の読み方」というものです。
 っていうかこんなの本来10歳の子供でも承知済みのことなんだよおおっ!!
 何 真面目に書いているんだろう
 いや真面目に書かせる人が悪い
 ちなみにこれは近頃かなり書きたい「作品の受け手のここが駄目」にも言及できる域の話ではないかなと思います。今日は書けませんが。
 ちょっと前におじゃんになった「うみねこのなく頃に総評」に詳しく書いていたので記憶の中から抜粋すると、『推理作品というものは本来は神秘性のある数学的なものとして処理されるべきで、それは簡単にいえば伏線回収を華麗に行っていくものと認識するということなんですが、「ここでこうした」ということは「最後にはその意図・意義を回収しなければならない」というお決まりのruleを、どれだけ独自のアルゴリズムと構成とで美しく見せるかが推理小説の面白さであって、「うみねこのなく頃に」はそのruleを舐めに舐めきった』とあるんですが、うみねこに関わらず、最後に「視聴者にお任せ」の類の作品の場合、その伏線の個数や出来からフィードバックして考えるのが最も自然で、そうできないということは、作品が人の手によって作られた「作品」であるということを失念しているのではないか、と思います。「こういうセリフを吐いた」ということと「こういう結末になる」ということはリンクし合うんです。決して無関係ではないんです。帰結しているんです。
 とか、そういうこと書いていきたいんですが、書けません。残念
(ちなみに、うみねこ総評は「とことんキャラと世界観重視ならやっても痛手は負わない」「きっかりとした帰結を望む人間は発狂するから避ける」と勧めて閉めました。ズレはないと思います。アガサクリスティレベルでもそういうの愛読して育ってきたら多分最後を受け入れることはできない。何より「愛がなければみえない」の逃げ方が上に記したのとまるで同じです。まあ、この場合は糾弾しますけど…)