日記61

『のっぽさんのひ』

 ポッキーの日という言い方はどうも好きではないです。のっぽさんの日です。おれにとっては。11年11月11日。もちろん11時11分11秒には直立不動で1秒間祈ります。特に1,11秒の瞬間を意識しながら祈りをささげます。何を祈りますか? やはり「身長が伸びますように」が適切でしょうか。実はこれでも180センチ欲しかったんです。いや、今でも欲しがっています。だから祈るんですが。でもあと5センチは伸びないんでしょうね。残念ながら。確か男子は23歳くらいまではわからないみたいですけど。まぁ、でも自分でやれることは全部やって、あとはのっぽさんの神様に任せる他ないですね。…いや、のっぽさんの神様ってちょっと変ですね。のっぽ様なんですかね。一気にアレな感じになりましたけどね
 あ、ちなみに午前寝過ごしたからって午後に全力をかけるとかはしませんよ。だってあいつは23時ですから。正確には。邪道です邪道。さした効果は期待できません

『きんきょう』

 (確か)おととい家に帰ったら母と姉がいました。心底びっくりしました。突如帰国したそうです。どうして一報がないのか。「いれた」と言い張っているけど、不思議なことにおれのメールボックスには相変わらず楽天とマキちゃんからのメールしか入っていない。あと一ヶ月に一度届く月刊マガジンの発売日報知とか。もう買ってないのにゴメンネ。コンポと図書カード2組当てちゃったからもう縁が切れたと思うのよ。バニラスパイダーも終わってしまったし潮時だったんです。とかいう脱線。とにかく連絡がなくて驚きました。自由な人々です
 あと一週間くらいしたらまた戻るそうですが、とりあえずそれまでは家事はたいしたことはせずには済みそうです。楽じゃ楽じゃ

『しゃかい?』

 たまには真面目なことも書きます。しかしあくまで雑多に。年のせいにはしたくないですが論が拙いです。ご了承くださいな。とチラシの裏に書く律儀さ。にゃんっ
 TPPについて。もう来るところまで来ています。自分で出来る限りのことはやったので、あとはこの国が真に腐る寸前のところで留まっているのか否か、やつらの出方で決まるのを待つばかりです。 △何らかの目的を以って物事に従事するのが人間だと思いますが、彼らの胸の内、目的を構成する内情は今現在どうなっているのか。真に何を求めているのか。信念信条は常に胸にあるものですが、逐一確かめなくては知らぬうちに自分でも驚くほどの変貌を遂げるものです。彼らが政治家の道を選んだ時と、現に権力を得た今との違いが、大人になっていく過程の闇そのものなのでしょう(少なくともはじめは純粋だったと信じたい)。常に初心を思い出しながら活動するべきですね。 △真に恐ろしいのはTPPすら知らない同世代の人間であり、同時に最も愚かしい存在が、TPP批判こそはすれど自らは何もしなかった同世代の人間です。他人任せ、なんてカワイくて糞みたいに単純な言葉でもって実際に自分が蝕まれることにムカつかないならば若者ではないです。見てくれだけ取り繕っている以上、飼い慣らされている豚よりも厄介な存在であると思います。自由という幻想は自ら追い求める限りにのみ在り続けるのでは? ここにきて丸山眞男的思想がまた甦ってきます。 △とはいえ、おれは「権利の上に眠るもの」が完全に間違いだとは思ってはいません。何故ならば、常に何かを追い求める姿勢には疲労が付きまとうからです。それがたとえ一時的であれ、一度獲得したものに適度に甘んじることを総て悪と弾くのは理想論を振りかざしているに過ぎないとみえます。しかし当然、そうしている内に食い殺されることもまたナンセンスです。ともなれば必要なのは、自らに対し危険が差し迫った時に、咄嗟に反応することができる、ある種の動物的な勘の鋭さだろうと思います。国民はみな仮眠を取る獅子であれ、とそう思います。 △京大の中野准教授がTPP反対の論客として強いパフォーマンスであらわれて、以来様子を伺っていましたが、そうこうしているうちに原発賛成派として議論をはじめたので、これには面食らいました。TPP批判の切り口は鋭かったですが、脱原発でないとするならば、どこか盲目的に持ち上げている人々もまた一考が必要なのでしょう。 △少々メタ的な視点が欲しいんですが、流れとしてTPP反対派がああまで圧力をかけられて報道されていた中、彼が颯爽と登場せしめた理由は何なのか。同時に脱原発をいち早く唱えた藤田裕幸教授が一瞬でメディア露出禁止になったのは何故なのか。ということを考えると、メディア側はどうしても原発を稼動させたいのであって、そのためならばTPP批判論者の登場を許す程度には譲歩するのも辞さないということで彼を出したようにしかみえないのですが、どうでしょう。利権者とメディアがこうまで強く結びついている現状は本当に恐ろしいですが、逆に言えばだからこそ裏が見えやすいということもあります。
 無駄を切り捨てることについて。「原発事故も要は無駄の切捨てが原因だった。無駄を切り捨てた場合に発する余剰の経済発展のために対策にはお金を掛けないでおこう、……無駄はいらない…という考えのせいで、実際に原発事故が起こった時に、現にどうしようもなかっただろう」。これはある教師のセリフですが、全くその通りだと思いました。余裕を作る、選択肢を広げるという効果をもつ無駄は、その意味では無駄ではないです。要はポストモダン的思考なのだと思います。表面的に必要で正しくみえることが必ずしもそうではない、「急がば回れ」程度のパラドックスの話です。 同時にその教師が好んで使う例にアリがあります。アリは先頭を行くアリが出すフェロモンに続いて餌場を探し仲間の誘導を行いますが、中にはそのフェロモンに追尾せずに好き勝手歩いてフェロモンを撒き散らす「よくわからないアリ」もいます。しかしそれがただ「よくわからないやつ」に留まらないのが、そういうアリが偶然にも餌場への最短距離を見つけてしまったりするからなのです。これは結果的に餌の持ち帰り率があげることになります。人間にとっては一見無駄であるかのように思える存在が実は労働効率を高めるためのストラテジーとして進化したものであったりもするわけです。 △アリの話でいうならば、8日の産経新聞の文化面に寄せられた北海道大学大学院准教授の「働かないアリと組織管理」というトピックがあるのですが、あれにはとても感心しました。「もしドラ」のマネジメントブームにも絡めた論なのですが、帰結の「アリと人間の違いは感情の有無であり、人間が自己実現感(=承認)を味わえる環境を提供することで、組織効率をあげることができる」という部分がすばらしかったです。「承認」を与えるくせ、そこへ至る感情経路は非常にゲンキン(=アリ的)であることも面白いです。いわゆる「メタ管理」だそうです。「社会の歯車」を超えて「社畜」とさえ称されることもある現代日本のサラリーマンが疲労していくのは、マネジメント側の度量の問題が大きく関わっているのかもしれません。 △閑話休題します。無駄についての話ですが、または多様性という言葉を使ってもいいです。適者生存。ダーウィンです。ある環境において生き残るためには、多角的に対応するために少々ばかりの個体間での多様性は重要視されています。均一にし選択肢を阻めることで、たったひとつの弱点によって全体が破壊されてしまうこともあるわけです。人工的にも、こういう可能性もある、ああいう可能性もある、だからこうしておく、ああしておく、といった対応を生み出すことが必要なわけです。確かに現実的な確率からカットラインを引くことも大切ですが、たとえば原発事故の話に戻し、「津波等で予備電源が破壊されたら打つ手がない」くらいに現実味のある話だと、そこはやはり厳密に対処していかなくてはならなかったのでしょう。もちろん、中野氏が言及したような隕石事故などは本当にどうしようもないのですが。しかし地震大国の日本にとって津波による破壊を失念しているとは甘かったといわざるを得ないでしょう。 △しかし本当のことをいうと、おれは原発事故の発生自体はある程度は仕方のないことだと思っています。我々国民が、たとえ事故はほぼあり得ないと言われ原子力発電に甘んじていたにせよ、それがひょっとすると(しなくても)詐欺の領域であったかもしれないにせよ、その電力を享受していたことは事実ですから(そもそも原子力分の電力が本当に必要だったのか? ということもおいておいて。コストの話もありますし(さらに、そのコストでさえも事故費用についてを考えてみると単純ではなくなるのですが……))。致命的な問題はその後の政府と東電の対応でした。3月中旬に東京に放射線が降り注いだあの日に自宅待機を推奨していれば、(最低でもマスク着用を促していれば)、フクシマの住人をもっとはやく完全に逃がしていれば、食料汚染量をもっと厳密に制限していれば、などの各々の理由でもっと生命を尊重していれば、さらにいえば利権や金以上に大切なものがあるというコモンセンスを失念してさえいなければ、必要以上の人間が汚染され結果長期的に見て殺されることはなかった、というような事例が将来判明した場合、彼らは本当に取り返しのつかないことをしてしまったことになります。ある種の過失致死でしょう。今後想像し得る最悪のケースが起こってしまった場合には、彼らには絶対に報いらねばならない罪があります。
 歴史は繰り返すことについて。第二次世界恐慌(一説ではもうなっているという話もありますが)、次いで戦争の勃発が危ぶまれています。大国は自らが使う通貨のみの円滑な運動を求めて閉じこもり始めました。つまりはブロック経済です。1929年の世界恐慌を受けて、イギリスはエゴを最大限に発揮して自国のみのことを重視する政策によって第二次世界大戦の下地を創りました。要は今でいうところのアメリカのTPP展開です。EUの存続すら危ぶまれる中で、原発事故で疲弊した日本から何とか資産を搾り取ろうとしています。グローバリズムが広がるくせ、その実自国のことしか考えない各大国のエゴが広がっていくとなると、当然戦争は免れません。 △有史以来歴史は繰り返してきました。現代史という枠組みの中で見ても、一部の利権者が儲かるからという理由ではじまる戦争ばかりが目立ちます。今回もその例に漏れないのでしょう。 △どこかで逸れないと確実にやってくることがわかっている悪夢の到来の可能性を傍らに日常を過ごす人間は、その中で何を見出しどう思考していけばいいのでしょうか(これからの作家には本当に期待しています)。 自衛隊は実質海外での戦闘行為が解除されました。着々と戦争への準備が進んでいるようです。 △今の日本人が戦争をするか? ということはさらなる問題です。自分のまわりを見てみると、自分を含め国のために戦場へ出向こうという者など到底いないように思われます。特に若い世代の人間は、日本国というもの自体に疑念を抱くようになりました。自分たちの望みを一切かなえようとしない政府から出兵を命令されたとしても、簡単に従って動くものでしょうか。俺は絶対に戦争には反対です。何があっても火器は持ちません。歴史を学んだひとりの人間として、21世紀に戦争を肯定することはできません。ただ、そういう人間が多いにも関わらず、世界の潮流が激しくそちらに動いていった場合、その先に待ち受けているのは単なる戦争による破壊だけではないように思えて仕方がありません。 △しかしそうでなくとも今年から来年にかけては大国のリーダーが同時に変わります。アメリカもドイツもロシアもイタリアも全部です。これほど大きな変動が、過去類を見ないほどの大不況に重なってくるとは運命的です。運命的な最悪っぷりです。せめて表情だけはにこやかに成り行きを見ていきましょう
 死刑制度について。時事は関係なくなりましたが、おれは法学部志望なので、このことについては特に真剣です。ちなみに、廃れた交友関係ですが、なんとなくきいてみるところ同世代の連中内では半々といったところのようです。つまりは賛成か反対か。穏やかな顔をして「犯罪者はみな殺せばいい」と言い放つ子もいました。ちょっと怖すぎですね…。 △おれは存置派です。論点は多々ありますが、ここでは「抑止力」と「冤罪」についてだけ書こうと思います。ゆくゆくは裏を取るために自らが動かねばらないと思うのですが、死刑絶対肯定論という新書に書いてあるように、死刑問題には、実際の犯罪者の現状というものが大きく関わってくるでしょう。この本は著者のバイアスが酷いですが、肯けるところも多いです。たとえば「娑婆に出たらまた確実に犯罪を犯すことを確信し明言している者」「そうしなければ生きていけないとさえ思う者」、彼らを刑期まで生かし続けておくことが本当に正義か、という話です。反省の余地が全くない人間にももちろん税金は使われ続けます。現代日本はそれを看過できるほどに豊かとは到底思えませんが、まずそこはどうでしょうか。また、おれが使いたい「抑止力」という言葉は、存在自体が(ポテンシャルとして)犯罪行為を減らすのではなく、実際に刑に処すことによって、今後起こり得る被害者を減らすという実際的な意味での「抑止力」です。むしろ現実的な「行使力」といったところでしょうか。冤罪死刑も当然ですが、それと同等以上に避けなければならないのが、「その犯罪者を放したら確実に発生する新たな被害者」の発生だと考えます。善良な市民が半ば発生が確定していた犯罪によって傷つけられることは恐ろしいことではないでしょうか。 △すると「それならば終身刑でいいのでは?」という疑問が投げかけられそうですが、それにはふたつ答えがあります。ひとつは終身刑も相当に辛い刑であるということです。人は希望の中で生きていますが、今後絶対に牢から出られないということの絶望感が電気椅子に座る前の絶望感よりも柔らかいと断言することはできませんし、残酷性もまったくいい勝負をしていると考えます。現に終身刑になってから、死刑の方がよかったと嘆く受刑者、終身刑の途中で自害する受刑者なども少なくないようです。そこにさらに生かすための税金問題という話も加わってくると、いよいよ単純ではなくなってきます。 もうひとつは、「人として死ぬか否か」という問題です。それは、たとえば「強盗殺人を行うも全く反省しない男が果たして人間であるか」という話です。殺人鬼という言葉があるように、彼は生物学的には人間であるかもしれませんが、文学的にみれば人間ではないかもしれません。ここで浮上する事実として重要なのが、死刑を言い渡されて初めて後悔をする人間も多いということです。「自分が死というものに向き合って初めて自分のしてきたことの意味がわかった」といって心の底から悔やむ犯罪者は、死刑によって初めて人間的な人間になれたといっていいでしょう。 △最後に遺族感情を付け加えてもいいのですが、小さいトピックなのでとりあえずはこのくらいにしておきます。最後に「もしもあなた方が『わたしたちは悪魔ではないのだから』という高位からの視点として犯罪者の死刑処置に難色を示しているならば、自分も犯罪者も同等の人間だと考えそれでも死刑存置を選ぶ人間よりも、あなた方のほうがよっぽど悪魔的である」と残して締めようと思います。加藤周一の論を逆手に取りました。殺すことは悪、殺さないことは善という安易な二元論こそが最も目障りなのです。 △ごめんなさい流して書いていたせいで冤罪について書き忘れていました。「日本の冤罪の殆どは警察の怠慢のせいである」という論と、前述の「終身刑と死刑のどちらが辛いか」(冤罪だとまた話はかわってくると思うのですが)が関わる話ですが、またの機会に。 △またついでなので付け加えておきますが、「世界は死刑廃止の流れである」という死刑廃止派の論もナンセンスです。なぜなら死刑廃止の殆どは欧米諸国だからです。先進国のしていることが正しいというのも間違って考えですし、何より「そういう流れだから」という理由で文字通り流されるのは思考停止に過ぎません。何より知っておいてもらいたいのは、おれの唱えるような存置論はあくまで「死刑が必要な場合もある」というスタンスでしかないということです。現状では死刑は多すぎると思っています。もっと減らすべきだとも。ただ完全に廃止してしまった場合、そこには不自由さが残る気がしてならないのです。 △いたちっぺで残してしまうと、欧州連合のHPにある「欧州連合(EU)は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています」という論は、おれにいわせれば「優しい」のではありません、単に「甘い」だけです。反省していると口だけでも言う人間はそれでも死刑に処すべきではないです。ただし、前述したようなほぼ確実に再犯するとまでのたまう犯罪者には、そうした方が良い場合も存在するということです。少なくとも現18歳の自分はそう思っています。
 結構書きましたか? そうでもないですかね。果たして読んだ人がいるのだろうか。ものすごく不思議なところですが、少なくとも自己満足はできました。こんばんは 太陽。  新聞取ってきて寝転びながら読もうっと