雑記です。

 どうにも不思議、なんですが、本当に単純に二極化するとして、「原発派」『脱原発派』の両者で、「原発派」の「国の指定した500ベクレル以下の食料なら全然大丈夫で健康に害はないから黙って食って福島を応援しよう」という主張と(蓄積って言葉知っているかとかそれが本当に復興だと思っているのかとかいう疑問は完全においておいて)、『脱原発派』の『放射性物質が体に溜まっていくと将来何が起こるかわからなくて危険だから、とりあえず安全圏とは見られている一日3,2ベクレル以上は極力取らないようにしておこう』という主張とがあって、反対のことを言っている以上は確実にどちらかが間違っているということを考えたときに、どちらが間違っていたとしても大事に至らないか、という判断基準で道を選択するということが肝要である、ということに気付けない人間というのは、果たして人間なのでしょうか。反語です。おそらく人間ではないです。人間でないから安心してさした考えもなく色々なものを食ってられるんだろうし、水道水使って米炊けるんだろうし、産地偽装されても「いやーん♪」くらいで済ませていられるんだと思います。おどけて書きましたが非常に真顔です。まあ、天使か悪魔なのでしょう。人間とは体質が違って、だからいくら被爆しようがかまわないらしい。
 そしてこんなこと書くとマジで工作員に目をつけられるらしいから恐ろしいです。
 今日はどうにも疲れました。目に見えないものの恐怖は、当人が想像力をもっていなければ全てが幻想にしかなりえません。TVと新聞の情報だけで十分に生きてこられた彼らには仕方ないのだとも思いますが、それでも、伝わらないとがっくりくることはきます。民放の重役がどれだけ東電の理事や会長を重ねて勤めているかも知らずに、テレビというものがどうやって普及していったのかもしらずに、大きなニュースにならないのだから大丈夫だと思って生きている人がいます。やるせないものです。
 おれは最大限内部被爆に気をつけて生きていて、でも自身のこと以前に、周りが一斉に病気になったりすることを考えただけで、もうどうにかなりそうです。おれの夢は、悩みといえば身の回りくらい、という非常に健康な子供たちがいる中でしか叶わないものでした。それも崩れ去りそうです。書いたものが、誰かどんな理由でも現実を億劫に感じてしまっている人間が前を向くための踏み台となれば何よりだ、と思って筆を持つ人々が、それでも筆を持とうとするならば、本当に生半可な覚悟で綴るわけにはいかなくなりました。おれは社会や集団にズレを感じているときに、ただただ閉塞して縮こまっていく部屋の中で、本当にたくさんの本に救われてきたんです。文学に触れて自分を確立することで、今ようやく正しい接し方を身に付けるができたと思うんです。でもその文学のあり方も変わっていきます。
 とにかく、歴史的に考えて、常に社会を自由に捉えることができたのは学生たちです。おれもまずは学生にならないことにははじまりません。あと半年が何よりも遠くて、暗く見えます。 一歩先を行った同世代の人たちには、是非正しく立ち上がってもらいたく思います。 今日はもう寝ます。 らしくないようですが具体的なことを書くとどうしてもこうなります。なんかすいません