日記28

『we daren't seize the day』

 ここ数日は忙しかったです。楽しい楽しくないの枠なんかとっくに超えて。頭痛を感じるくらいに。まず、連日の予備校での授業は普段に比べるとずっとハードだったし(自業自得なんだけど、リバウンドみたいに急激なものだった)、その合間合間には人がふたり家に泊まりに来たし(厳密に言えばひとりが去って代わりにひとりが訪れた)、庭の雑草はますます猛威を奮うし、家は何もしていないのに不思議と着実に汚れていくし、何故だか風呂の排水溝はつまってしまうし(確実に姉の無駄に長い髪の毛のせいだけど、その張本人はまったく家に帰ってこないし、帰ってきてもお気に入りのアップルの画面とにらめっこするばかりで、皿洗いなんて単語は聞いたこともないとでも言うかのような涼しげな顔をしている)、ご飯は面倒だけど食べなきゃ体が萎えていくし、5年間に渡りおれに癒しを与えてくれていたペットは、何度思い返してみても海を渡って遠くへ行ってしまったきりもう2ヶ月も触れ合えてはいない。そしておれはそれぞれについて全力とは言わぬまでもそれなりに対応をしてきた。ある程度は疲れて当然だし、頭痛持ちなら頭痛を起こしても致し方ない
 オンオフの切り替え、という表現は正しくないんだろうけど、語感がそれっぽいから使わせてもらう。とにかくスイッチが入ったり切れたり、そんな忙しさだった。何せ勉強するときは大体朝から21時まで予備校にいて自習室にこもっていて、勉強しないときは極端なくらいに一切しないし(できないし)、歩いているときはうんざりするほどにひたすら歩き続けて、眠っているときは泥沼に沈むように深く眠っていた。やっていて強く感じたけど、そういうものは均等に分けるべきなのだ。10を一回して0を9回待つよりも、1を10回ずつ丁寧にしていきたい。何より思惑通りに進めるはずだったことはひょんなことから崩れてしまったし(これも自業自得か?)、会わないようにしていた苦手な人物には付きまとわれ、「お前おれのこと嫌いなんだろう」と面と向かって言われ閉口させられた上に、挙句人間関係についてのくだらない話を聴講させられた。おれに直接あんなことを口にさせないでほしい。語れば語るほどチープになることは、面と向かって言う必要はこれっぽっちもないんだ。お手紙という非常にIQの高い三文字は、実はメールという単語にも代替できるんだが、新宿という街にいながらもしその存在を知らないというならば、それは間違いなく何らかの病に冒されているから、健康診断の際にはお尻の大きなナースさんに「脳は重点的にお願いします」と神妙な面持ちで進言した方がいい。できないというのなら、代わりにおれが横で言ってやってもいいし、それも厭ならそれこそこの手でお手紙を書いてやってもいいさ。だから黙っていてくれ給え
 夏の塵 日照りに朽ちぬ 楔かな 
 …駄句でした

『じゃん・くりすとふ』

 俳句といえば中村汀女の詩があんなにやるものとは知らなかった。機会があれば句集を読みたい
 杉井光のサイトにある小説はほとんどのものに目を通したけど、凄まじい村上春樹臭で、篭った空気をいっぺんに吸い込んだみたいな変な気持ちになった。影響されてしまったのはともかく、殆ど模倣といってもいいような代物を、よくも発表できるものだ。これは嫌味でもなんでもなく、ただただ単純に驚いている。もしくは気付きながらの作者の思惑があるのか、商業作品に手を出せばほかにわかることがあるのか… 今のところはわからない
 しかし自分が影響された程度というのはわからないもので、そうなると自分を客観視できなくなるから困り者だ。Aに影響されたものを矯正したいなら他にいくつもの影響元をつっこめばいいだけの話なんだが、それをする時間がないものはどうすればいいのだろう
 村上春樹については最近また名前の出現率が高くなってきたので、何に投稿するでもなくメモ帳の掃き溜めの中に封印されていた、かなり前に書いたハルキに対するメモも同時にまた載せてみようと思う。<< (いわゆるハルキ的といわれる文学性に対してあまり好きではないと述べたあと)作者の経験と感性が凝縮された抽象性があまりに高く飛びすぎていて理解できない領域が、だろうか? いや、むしろ理解できるかのような錯覚をもたせるが実は何もわからせていない抽象性。読めば読むほどどこか置いていかれたような気分になる
 村上春樹があまり好きではない人の意見を適当に調べてみた。幅は広いにしても大体は同じところから発せられている意見が目立つ。つまり抽象性が過ぎるということ。同時に現実性がない。モノローグもそうだし、喩えもそうだし、何より登場人物がみんな「まず現実にはいないような」人間であることなど(しかし春樹の文章には現実を引き合いに出させないほどに引き込ませる手法があったことはたしかだ。しかし春樹がメジャーになってから長い年月が経過したし、模倣者たちによる絶対数の増加(と質の低下)に従い、どこか目が覚めるようにその虚構を作るアルゴリズムに対して疑念を抱くようになった人間は多いのではないだろうか)。物語自体も起承転結のわからぬものが多い(それは村上春樹に限らないし、善し悪しの枠にあると一概には言い切れないんだが…)。よくわからない間にストーリーが走り出して、勝手に目的を達成し終了してしまう…なども。結論からいうと同調はする。もちろん小説である以上は具体性から離れていいんだが、あまりに過ぎるとそれはどうだろうかと難色を示さざるを得ない。しかし多くの読者は春樹作品の中に、そんな喧騒から離れた浮世離れした何かを強く求めているのだろう。たとえその抽象性を自ら具体化し現実に反映させることができないにしても
 これも何度も書いているけど(注:書いていたらしい)、おれが「世界の終わり」だけは半ば問答無用に許容しているのは、この小説の題材がSFだからなのかもしれない。世界観からしてファンタジーだから、そこに付加される要素がいくら非日常であっても問題はない、と感じているのか … 逆にまさしく現代が舞台の話においても、いきなりファンタジックなルールを主人公が発現し、それにならって進んだりもする(注:たぶんメタファーのこと) … それは厳密に現代が舞台といってもいいのか? … 主人公の精神世界が現実に対応し結果を残す、など
 しかし「好きではない」という言い方をするにしても、「嫌い」だとはあまり言いたくないことに気が付いた。『風の歌を聴け』にせよ『ねじまり鳥クロニクル』にせよ、「現実味がない」の一言じゃ切り伏せられない秀逸な表現はあったし、多かれ少なかれそういうフレーズには影響されているのだ。何度でも言うが、ハルキの創造性と隠喩の力だけは本当に凄まじいのだ>>
 2年ほど前に書いたものだと思う。2年前のおれというといまのおれとはまったくの別人なので(記憶もさして継続していない)、読んで違和感を覚えるところも多いし、何より俯瞰的に見ておかしいのではと思うことも多いけど、生きているところだけ抜粋してみた。
 少し、面白い
 でも正直をいうと、今はこんな画一的には考えられなくなっている。読んだものに「面白かった」「面白くなかった」とぼんやり判断するだけになった。無理をすれば一元的にまとめることもできるけど、自分がそうなったからか、作者の思惑を汲み切らないと何も言ってはいけないような罪悪感に駆られる。そして何が正しいんだかよくわからなくなる
 しばらくはこのままなのだろうか

『そして』

 明日もまた殺虫剤を撒くことで一日が始まる
 犬はいない。どこにもいない。
 おれの気分はまだ少しの間は暗いと思う