日記23

『こりあんさんじん』
 おれがあの学校を嫌いだと言う理由は数多ありますが、ミッションスクールでありながらも生徒にキリスト教のなんたるかを教えるか、というよりも、もっと大きく枠組みをとって、21世紀という時代においての宗教のあり方を教えることもなく、聖書という名ばかりの授業や、あくまで形式だけを重視する中身のない礼拝を先決として、中学生という思考体系の形成に最も適した時期に、宗教学校というせっかくの特性を活かすこともなく、みすみす機会を逃してしまった、しいてはその機会を逃すことの惜しさというものに一片も気が付いていない、という愚かさに因るものが、何より大きな一番の理由です。
 生徒の大半がクリスチャンではないことを理解しつつも、事実から目を背けることも嫌いです。そのことに気付いているのなら、むしろクリスチャンではない人間に対して宗教の存在を正しく理解させることが互いに最も有機的なのですが、もちろんそのようなこともしませんでした。結局、生徒の大半がせっかくミッションスクールを出ておきながら、自らと宗教との距離をうまく取れることもなく卒業していったように見えます。これはなんとも酷い話です。
 そもそもクリスチャンでないのに礼拝をさせられることは、まともな中学生ならば即座に違和感を覚えて、果たして宗教とは何で、この科学世界においてどういう役割をしていて、どうして自分はこのようなことをしなければならないのか、と頭を悩ませることになるはずなのですが、教師側がそれを先回りして生徒に教えることは、あの学校においてありえませんでした。
 つまりそういう疑問は全部自分の手で解決するしかなかったんです。そうして信用の足る人に訊きまわった結果行き着いたのが、言わずと知れた狐狸庵山人先生です。

 (見えにくいですけど)
 というわけで行ってきた遠藤周作展。元町の方は行ったことなかったので商店街とかも見て回りつつ。
 撮影禁止だったので載せられません。メモだけ載せます。<神は沈黙していない、という意味でつけたのに、神の沈黙について書いたと思われた><鶏が遠くで鳴いた、という一文がペテロの否認と重なることはなかった>⇒総じて真意は伝わっていない。<灘中学の成績表>⇒落ちこぼれだった遠藤はそういう類のエッセイ本も書いてますね。<赤ゲット(赤毛布)とはおのぼりさんの意味。遠藤の仏蘭西放浪について書いたもの。『どうやらぼくはくるった星に生まれたらしい〜』>⇒語りだしは遠藤が落ちこぼれだったと考えるとすらすら入ってくる。<エケチット? エチケット?>⇒昔はエケチットといったらしい。誤植ではない。<モーリヤックやジュリアン=グリーンやジョルジュ・ベルナノス>⇒ジュリアン=グリーンのモイラは特に遠藤にとって思い入れがある。<『白い人』で芥川賞を受賞するが『黄色い人』は観念的すぎると酷評を受ける。それで三浦朱門や安岡章一郎や吉行淳之介庄野潤三らの集う『構想の会』に加わり切磋琢磨をする。そして『海と毒薬』にて高評価を受ける>⇒トキワ荘然り、切磋琢磨の重要性を知れ。<安岡章一郎へのあて書簡『(はじまりが)からすみ有難う〜〜>⇒微笑ましいですね。<『沈黙』に描く「母親のようなキリスト」こそが日本人にとってのキリスト教〜>⇒両親の離婚が背景にあるからこその遠藤の考え。<自分を愛してくれた二人がいがみ合い互いを切り裂くこと以上に子供にとって恐ろしいことはない〜>⇒当人にしか分からぬ苦しみ。<『次々と友人が受洗するのを見て』。三浦朱門矢代静一高橋たか子らは人生の半ば以上を過ぎてイエスを選んだ文学者たちだが、皆遠藤の影響である>⇒遠藤の横のつながり。<宗教多元主義といわれる宗教観・世界観の文明社会に問いかけをした『深い河』>⇒まさに俺が持っていた、宗教とは何で、この時代の日本に誰がどうして信じるのか、という疑問を晴らしてくれた作品。<『深い河』創作日記の中にはイギリスの神学者ジョン・ヒックとの出会いも絵が枯れている。ヒックの立場は従来のキリスト教中心の考え方から転換し、多元的奈様々な宗教の中に究極的に同一の神的存在の概念を求めようとした。これはグローバル化の中でキリスト教の立場からの新たな宗教理解であり、いわゆる宗教原理主義の排他性を乗り越える道筋であろうby富岡幸一郎>⇒どうして様々な宗教が氾濫し、互いにいがみ合っているのか。それぞれの宗教の神は本当にそれを許すのか。少なくともイエスがそれを看過するはずがない。『深い河』はそういう疑問を乗り越えて、生命という包括的な存在から現代の宗教のあり方を見せていく。ガンジス河で沐浴する印度人の姿を見て「汚い」とだけしか言えない日本人の性質とは? <『深い河』草稿>⇒生草稿。微妙に設定が違っているのが面白い。校閲に入れたペンなどもレア。『深い河、神よ、わたしは河を渡って、集いの地に行きたい。黒人霊歌』⇒深き河か? 河の持つ生命性。
 <宗教で一番だいじなのは、先ほどから言うように、自分を包んでくれて生かしてくれる無意識の存在であり、多くの日本人の場合それは仏様であって、わたしの場合はキリストだとしても、それは、根底では共通しているものだ。(中略)。第二義、第三義的なことを表面に持ち出して、おれたちの宗教とは違うんだ、と言う時代は、既にもう終わりかけていると思うのです。『宗教の根底にあるもの』から>⇒『深い河』にて、時代遅れ(というよりも、周りより浮いた存在)なキリスト教徒大津は、(成瀬さんは日本人だからイエスという名を聞いただけで敬遠なさるでしょう。ならばイエスという名を愛という名にしてください。愛という言葉が肌ざむく白けるようでしたら、命のぬくもりでもいい、そう呼んでください。それがイヤならいつもの玉ねぎでもいい)という言い方で、宗教全般を小ばかにする登場人物に神を説きます。遠藤周作は、たとえその人が何教徒であろうと、(これはおれがインプライを読んで言うだけですが)いや何教徒でもなかろうと、それこそ誰もが命のぬくもりを持っているように、『愛』というものは一律であり、根底では共通しているものと言います。つまりその人が何を基準にしていようと、それこそキリスト教という存在を介してでもそうでなくても、根底にあるのは何も変わりはしないんです。それが『イエス』を『玉ねぎ』と置き換えても言っても構わない、という発想です。玉ねぎならば誰もが共通して思い描くことのできる普遍的で且つ平凡なものだから。でも、愛とはそういうものでは。
 また、おれの友人の父親である神父さんは、「神なんて信じなくても優しくありさえすればそれでいいよ」と仰いました。それは愛を知っているのなら、キリスト教を通さなくて全く構わない、と考える人間の言い分ですし、おれは大いに納得しました。キリスト教は『愛』をうまく伝えるための、いわば教科書でしかない、という考えほど、キリスト教徒以外にとってなるほどと思うことはありません。<汝の隣人を愛せよ>って、それはつまり人に優しくということでしょう。だったら当然の話ですからね
 草稿を見ることができたのは感動的でしたし、何よりはじめて宗教に触れて困惑したときの自分を思い出せたりして、とても有意義に過ごせました。
『ちなみに…』
 ローズガーデン。のろのろ周ってました。


 「秋月」「宴」「夢想」「緋扇」……日本名の薔薇の名前、ちょっとかっこよすぎないか… 「はまみらい」はアレだけど ちなみにプリンセス・チチブは嫌いじゃない
 これは行ってみたかったけど閉まっていたところ。外国人墓地は呼び込みがすごかったけど行かなかった。遠くから覗いているだけで。

『きしべろはんは…』
 1200円でゲット! 及第点です。
 岸部露伴は動かないとか言ってますが窓開けていて風が入ってくるとカタカタ揺れ動きます。うそつき!

『さらにちなみに…』
 自由が丘の駅で特急待ちしている間にゲームセンターに寄ったら大会やってました。有名コテハンも多かった。ニコル弟の兄のストフリ&クロボンがアレックスストライクに負けたりしていて大番狂わせ? (やっぱりアレックス強いよね…)。そんな真面目に勝ちにいく大会でもなかったみたいだけど、何にせよレベル高かった。特にもんたのシャゲとか。シャゲまだまだ強いよな。
 結局なんのチームが優勝したかは見てないけど
 小学校の頃の後輩(よく公園で一緒に遊んでいた子)がずっと隣で身内を煽っていてイヤだった。お前ゲーセンなんか来るなよ、って毎度思うがおれも人のことは言えない。しかしあれだけ近くにいてバレないのは面白いなあと思います
 前にシャッフルでちょっと使ってからダブルオーに興味が出ている。使いたい気分です。やっぱり宮野守かっこよすぎてだめだ… シュタインズゲート観てるのも4割オカリンが宮野声だからだしな。うーん。かっこいいねえ。宮野守