日記22

『げいじゅつは    ばくはつだ』
 駅で夕飯のことを考えていたらふと風の歌を聴いたので、それならばそうしようと思い立ち、カレー作りの計画を投げ捨てて、代わりに岡本太郎の100周年記念展に行ってきました。
 「人間―イメージとしては顔だ。顔、顔、顔、それが世に満ち足りて、笑ったり、怒ったり、悲しんだりする。〜中略〜。自然の樹木が我を失ったように伸び広がっていく。凝滞ない美しさ。われとわが顔なんか忘れているような、ふくらんだ表情こそ素晴らしいのだ」。考えることも戸惑うこともなく、すっと理解できる言葉。深い浅いの次元になく心底に留まります

 パルコ前。一目でわかる。ここでやっているのだと

 なんか笑ってしまうほど無駄に似た人形だが、直ぐ後ろは格言。怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。
 1階にも在るという事実も証明しているけど、展示物の中でも最もシンプルで面白いのが「坐ることを拒否する椅子」。曰く「あのお尻の雛形のような、いかにも坐ってちょうだいと媚態をつくっている不潔さが嫌いだ。それで逆に精神的にも肉体的にも人間と「対等づら」するものが出来上がった。生活の中の創造的な笑いである」。鋭い視線だとしか言えません
 そして『マスク』


 「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と言った人間の企画展「顔は宇宙だ」。深く語るは難しいし、何より芸術においては繊細に気を配らないと、あらゆる言葉はただ無粋に沈むことになります。おれにできるのは、無機質に笑うオブジェと対峙しながら、別に抽象的な物事に限らず何かについて考えることも悪くないことでは、とひとこと残すことくらいですね。6月の中旬過ぎくらいまでやっているそうなので、簡単な展示ですし、行ける方は行ってみたらどうでしょう
『あと』
 計画は破綻したので普通にお弁当屋さん寄って鷺沼コロッケと、かぼちゃコロッケと、かにクリームコロッケ(昔は嫌いだったかにクリームコロッケ。今は好きです。いつの間にか好きになってました。いつからなんだろう)、あとはキャベツ2袋買って、いっしょに食べる人がちゃんといるんだよと悲しい虚構のアピールをするために必殺お箸を無駄に2膳頼むの術をして、あとスーパーで明日の朝飯とスイカとプリン買って帰りました。
 食事についてはありがたいことに色々な人から心配されますが、別段の問題はないです。大変といえば大変ですが今日のように買って帰ることもできるわけですし、何より最近は独身に優しい仕様にどこもなってますからオレもその恩恵を受けていますし…。そして観念は健康志向になり栄養はむしろ以前よりもバランスいいような気さえします。全部自分で、となると途端に不安がって変に気をまわすようになるものです。
『かぜのうたをきけ!』
 大学生になったら大いに風に流されたまえ、といわれたことがあります。または立教新座中学校の校長先生が卒業生に向って「大学に行くとは海を見る自由を得ることだ」と言い放ったという小さなニュースはまだ耳に新しい。大学生になる前から、高校生の頃から、いやもっと前の中学生の頃から、むしろ小学生の頃から、おれはというとふと思いついたときにそれに従って歩いています。単なる気まぐれを聞こえよく肯定しているだけ…と断ずるには、あまりにも空気のように「そういう存在は存在しています」。この存在を疑わない以上は、どこへ行ったような気持ちになっても、いずれ正しいところへ回帰できるものとおれは常に思っています
 だから今日もこれでいいとオレが思っているのだからこれでいいのだ