涼宮ハルヒの驚愕(上)(下) 読み終わり

 3時間強くらいでさーっと読み通しました。上下二巻とはいえ谷川流の文章だと軽いのでとんとん拍子で。しかし分裂の内容をさっぱり忘れてしまっていたせいで途中までよくわからなくて大変だった。「わたしはわたし」とか、うーーんと考えてようやく「あったかもしれない」と思い出すレベル。佐々木とかはインパクト大だったから問題なかったけど。長門のダウンとかは完全に忘れていた。
 適当に書くけどネタバレがあるかどうかは知らない。
 渡橋ヤスミに関しては絶対に名前に意味があると思ってアナグラムしていたら直ぐにわかった。大して思うことなし。αとβに関しては「分裂」の意味はハルヒと佐々木以外にも掛かってたんだなあとぼんやり思うだけ。といいつつ同一人物とはいえ群像劇ぽく話が進んでいくと其れが好きな人にとっては邂逅時は面白い気分にさせてもらえて気分が良かった。
 総じて佐々木萌えにもハルヒ萌えにも優しい内容だったように思う。あとは古泉好きにも。ハルヒはキャラがよくできているので(本当によくできているので)珍しくオレでさえ嫌いなキャラというのがいない分、間を取る人間にも極に寄る人間にも良質な巻だったように感じる。
 キャラクターを重視した分、内容自体は多少薄い印象を受けた。キョンのモノローグが長いだけで、実際にあったアクションの数は少ない。それよりも伏線を撒くことに専念していたのか。なんにせよまだまだ続くことをにおわせるのは、あれだけ待たせて出した新刊の内容としては非常に挑戦的で笑えたけど、まあ、おれは好感もてました。
 長い間が空いていたとはいえ別段変わることのない谷川流の出来のいいライトノベルでした。この数年の間に肩書きの変わった人間は読んでいるとどことなくノスタルジックな気持ちになれること請け合いです。おれは中学時代思い出しながら読めました(特に電車の中だったし)。
 ちなみに小冊子の短編はまだ読んでいなかったり。

 あまり関係のない話。
 おれはライトノベルって大御所くらいしか読まないからわからないんだけど、いわゆる「ラノベ的」な文体が本当に流行っているのかどうかというのが知りたい。つまりキョン風な地の文っていうのは今刊行されているラノベの中に本当に多いのかということ。とらのあなとかいってぱらぱらめくっているだけでわかるものだろうか。
 西尾維新的な語呂合わせとか奇抜なネーミング、平坂読並のもはや小説を書く気はあまりない系統のラノベなら、まあわからんでもない。そういうのが多い印象は受けることは受ける
 あとは「ラノベも小説は小説なんだからラノベ(笑)とかいって差別するな」という意見。同世代に多いといえば多い。けどその意見は根底からして間違えている。娯楽に走りすぎた現代小説との比較ならもはやあまりする意味がないとおれも最近は思うけど、そうとはいえライトノベルと一般レーベルとの間には明確な差というものがある。つまり文学性というもの。これは分け隔てなく読んできた人間こそよく理解することだと思うけど、純文学とラノベの共通点は、言うなら「まとめられた紙に意味の理解できる文字列が印刷されてあり、大体の場合は右から連なりひとつの世界を為しており、表紙というものがあり、作者名というものがあり〜」程度の共通性があるだけで、つまり見た感じ似ているというだけで、その中身となると愕然と格の違うものになる。具体的にそれがどう違う、ということを説明させようと思う時点で十二年以上生きてきた人間がするべき思考回路ではない。鼻で嗤われてもまるで仕方が無い。
 別にライトノベルを馬鹿にしているわけではなく(実際に好きだでこうして読んでいるわけだし)、ほかのものとの区別を疎かにするようなら、それは大いに認識が違う、というよりもその時点で「おれは文学的な作品を生まれてこの方ただの一度も読んだことがありません」と告白するに値するだけの行為だと、全国の中高生に知っておいてもらいたい。ラノベ読むのも全く構わないけど、それ以前にまともなものを読んでおかないと文字の裏に沈んでいる意図と思惑を認識する能力の基盤からして歪むことになるし、それはこの世代の全体的な知能水準を大幅に下げることになるから、赤の他人としても是非留意しておいてもらいたく常に思う