鉛筆もってすること

 単調な生活しています。去年もそうだったんだけど、やっていることが決まっていると話の引き出しもかなり狭まるから困る。新たな話題が授業で聞いたこと予備校であったこと、あるいは時事ネタくらいしかなくなる。刺激がないっすね。
 時事ネタとかはできるだけネットでキャストしたくないんだけど、まあ、なんだろうな。一応科目話とリンクもするのか。歴史学的見地に立つと、という話。福島第三原発プルサーマル問題は、そもそも去年のオバマプラハ演説が深く関わることが何とも皮肉で悲しい。核廃止を唱えるアメリカが手に余ったプルサーマルを日本に運んだ途端にドカーン。冷戦以降の核問題、スリーマイル・チェルノブイリに続いて確実に頻出11に肩を並べることになるんだろうな(と書いたもののスリーマイルが最頻出だったかよく覚えていない)。歴史の中に生きてますね。
 受験世界史的視点からだと、福島第一原発問題の発生によって、近代初の国際戦争だった三十年戦争ならびに初の国家間関係の成り立つことになったウェストファリア体制が今年はもれなく狙われてくる、という予測がとても面白い。イラク戦争やら9.11の後のウェストファリア体制への一斉ライトアップがまた見られるのだろーか。あとは科学史はもちろん、エジプトも迫ってくるんだろう。予測し放題だからこそ恐ろしい話です。
 英語は面白い。また一から文法を見ていると、どれだけ感覚的に変化していってしまったのかが如実に見て取れる。答えは一致するにしても、無意識のうちにこういうプロセスを歩んでいたんだなあと考えると感慨深い。はじめはきっと慣れるのに苦労したことだろうよ。 
 英語はとにかく走り始めはじっくり時間をかけて慣れていくべきだと感じる。他を見ないでとことん1ヶ月やりつめてみるのがいい。絶対化はできないまでも便利な文型はどんどんVOC振りながら簡単な文章を読みまくった記憶がある。おれは動詞は一文の中の位置付けでどれか決まるという話が面白すぎて感動した覚えがある。textは辞書になくとも動詞になりうるとか。He knifes her.だと当然knifeが動詞にならざるを得ないとか。生きた英語って感じで。
 とにかく興奮を覚えながらやるのが一番なんだろう。そう考えると二学期以降のマンネリで勉強していた自分は落ちて当然だったのかもしれない。常に能動的であれ。踊らされるな自ら踊れ。どっちも口酸っぱく言われてきたことなんですけど。
 どうでもいい古典の話。
 古典は登場人物が基本的にバカだから読んでてイライラするんですけど、時たま妙に萌え萌えしい場面があるのは嫌いじゃないです。覚えてないけど昔読んだ字の上手な子が船の上で競って習字する話とかは鼻血モノだった記憶がある。とか書いてまた自ら株を下げる。が気にしない。
 最近だと、おしゃべりな姫が殿のもとへ嫁ぐから、心配した乳母が「春の鶯の、まがきの竹におとづれむを聞かむやうに、めづらしき御ことにて候へよ(春に鶯が鳴く程度の珍しい頻度で話すようにしときなよ)」という台詞を吐くのに対して、姫君が「我は、乳母(まま)よりさきに心得たるぞ。何しにさかしく教ふる」とツンと返すのがちょっとツボだった。うーん 姫の髪型はきっとあんな感じなんだろうなー ウーン
 漢文だと金持ちだけどブサイクな男か貧乏だけどイケメンな男かどっちに嫁ぐか両親に聞かれた娘が、両肩の着物をはだけさせて答えるというのが一周回ってビッチらしさがなくなっていいんじゃないかと考えたりしていました
 …なんつーか、単調な日々なら単調な日々で、自ら色を付けていかなきゃいけないなあ、と、そう思うんですよね。萌えとは本来つくるものではなく日常から見出していくもの…。英語評論からは難しくとも、せめて古典からくらいはガンバッテいんすぴれーしょんを得てみせます。得てみせますとも…
 あとは3月中にチャート式で勝手に遊びでちょいちょいやっていた数学は、そもそも加法定理に行き着く前に死にました。あれだけ苦手だったグラフも今なら案外いけるもんです。でも所詮は遊び。頭使う応用問題からは目を逸らしていたりいなかったり。その時点で負けていたりいなかったり… いや、おれには数字から萌えを見出すのは無理です… いくら熱弁されようとも…
 7+8=15に美しさを覚えない人間ですので。残念
 そんなかんじでした。