J1

 こんばんは。おれです。随分飲みました。べろべろです。このまま何か書きます。
 このところ、連日の試験やその後の外出が続いて中々ものを書けずにいましたが、こういう分野は不思議なもので、ちょっと期間を置いただけで随分と筆の進みが悪くなります。三島は毎日欠かさず練習することが必要だと言いました。そのとおりです。欠かさないことが大事みたいです。手記の日記も泊まっています。指がぎこちないです。
 ぎこちない中で、ちょっと受験について書こうと思います。長くはならないと思います。でも短くもならないと思います。適当にいきます。あまり気を使って書いていくつもりはないので、いくつかのトピックにわけて書いていこうと思います。
(1)
 この間、予備校でちょっと話すような子や、あるいは従来の知り合い等に、俺が春から進学することになるだろう大学の二択をしたときに、直接言われたり、間接的にそうなんだろうと思われる発言を多種頂いたので、そこで自覚したんですが、もしかしたら俺も高学歴と呼ばれる類の人になるのかもしれません。なるほど文系理系問わず、国立私立問わず、ただただ知名度と偏差値だけで見るとするならば、(という言い方をしているので、当然おれ自身はそう考えていないことになりますが)、確かにある程度高度な大学ということにはなります。そしてそれだけなら、高学歴どうこうは他人様が決めることなので、別段俺としてはあまり興味はありません。就職に強いから羨ましいとも言われますが、学歴なんて本当に上の就職先になると武器にすらならないことはよくわかっているので、場合によっては高学歴とよばれる人種になれて嬉しいかというと、本当に矮小な自尊心以外はまるで揺ぎ無いというのが本心です(その自尊心という傲慢は、結構昔から俺の心の隅にいて離れないやつなのでですが、最近は今までにも増しておとなしいのでカウントする価値は特にありません)。しかしここまで言うと、「ではどうしてわざわざ努力して上の大学を目指したの?」と思われるかもしれません。というよりも言われたことがありますのでわかりますが、そういう方とは、つまり受験という事象の捉え方が違うということになります。先に書いておきますが、理由は簡単、「環境がいいから」です。散々調べた上なのでわかりますが、一般に名門とされる学校は、まず自由度が違う(圧倒的です。細かくて煩いことはほとんどないといっていいです)、留学先が違う(同左。圧倒的です。関するフォローも全く変わってきます)、基本制度が違う(3年卒業が可能等。最近は結構増えているみたいですが)、手当てが違う(某私大はそこの医学病院が年中無料で利用できます。卒業後もです)、東京の場合は立地が違う(これは一概には言えませんが、大体のケースでは当てはまります)、何より教えている教授のレベルが違います。偏差値を求めているのではなくて、環境を求めていくと、自然に偏差値が付随してくる形になっているのです。俺は何処までいっても受験動機に対しては厳格なつもりでした。勉強しに行くつもりだったんです。今でもそうです。そこがぶれている受験生に、元来のところでは、受験する理由はないといえます。もちろん現在の社会がそれをある種強要しているのも認めます。ある程度の収入を正攻法で得ようと思ったら、学歴があれば安心という社会は終わりましたが、学歴がなければ始まらないという段階に留まっていることは事実ですし、大方の人は、そのある程度の生活というものを求めるものです。しかし、あくまで元来のところでは、です。 また、俺は結構色々な私立志望の人に、しつこくない程度には、(特に問題のないだろう好例なのでパッと出してしまいますが)、「早稲田を目指しておきなさい」と言ってきましたが、あれがそういう良くない種の高学歴主義の発言に見られていたとしたら、それは不本意ではあります(前出の「元来のところでは」という話が関わってくる内容なので続けて書いていきます。読みにくいでしょうが許してください)。俺は今の就職制度は間違っていると思っていて、尚且つ変わるべきだとも考えているんですが、システムの変化に何よりも時間がかかる世の中で、文句を言っているうちに無職になって飢え死んでしまうような不憫な子ができてしまうのは、それは全く忍びないので、ある程度は譲歩しながら文句を言う、つまり現時点の社会の言い分に身を譲りながらも「違うのだ」と唱える姿勢が必要になってくる、と考えていることがひとつの理由になります。それと何より、早稲田大学くらい大きくて優秀な大学になってくると、将来の夢も特に決まっていない・勉強のために進学するという気もあまりない・暫く今の生産的ではない趣味を続けて遊んでいたい、というような、おそらく大多数の高校生に適するような条件の子たち、要は「元来」大学に進学しようとすべきではない子たちに対してでも、入学後はしっかりと守ってくれたり、あるいは面白い人種というものが沢山集まるところなので、見えない可能性を開いていってくれたりすることが多くあって、とにかく入っておいて得な大学ということになります(見てきたように言っていますが、信用できる色々な人たちからきちんときいてきたことです)。要はつぶしがきくのです。何より選択肢を広くしておくことは間違いなく悪いことではないのです。そういう意味でも「迷ったら早稲田」はほぼ決まっていると思います。何より私立なのでそう難しくもないです。かといって簡単でもないですが、お手頃という意味では凄まじくお手頃です。これ以上書くと怖い気もするのでやめておきますが。もうひとつ書いておくと、俺含め大体の人が学歴自体にたいした意味は見出していないと思うのですが、その主張が真に意味をもつのは、実際に高学歴とされる人々がとなえてからになります。東大生が「東大なんかくそだね」というのと、高卒の方が「東大なんかくそだね」というのでは響きが全く違います。10の力を持ちつつ1や2を扱う余裕がないと人間は話をきいてはくれません。「できるよ? できる上でくそだと言っているんだ」という次元が、現実的なアフェクトを期待する立場としては必要になります。 これら当たり前のことが、俺が偏差値主義でも高学歴信奉でもない理由になります。ただただ、名門校の方が勝手がいいから良いんじゃない? と考えているというだけの話です。というより、逆ですね。勝手がいいから名門校なのです。そこを履き違えるのがそもそもナンセンスですね。
(2)
 (1)の続きになりますが、また、「早稲田を目指しなよ」というと、大抵の子は半笑して「おれには無理だよ」といいました。17歳とか18歳くらいまで生きてきたその子自身よりもその子について俺が理解している可能性は無論ほぼ確実にないので、そうまで言われたらそれ以上は何もいえないのですが、ただひとつ残しておきたいのは、「自分の可能性を低く見積もらない方が良い」ということです。おれも受験勉強がはじまったばかりの頃は、殆ど何も手付かずの状態からだったので、当然偏差値は下手したら30台程度でした。ですが自分が正しいと思った教師の言うことを聞いて、言われた通りのことをしっかりやったら、それだけで2ヶ月後には60半ば程度にはなっていました。偏差値なんてたいした指標にはなりませんが、それくらいの数字は記述模試でまぐれで出せるものではありません。おれは本当に惜しいと思っているんです。本当の本当に惜しいと思っているんです。俺の友だちなんて8割9割が俺よりもまともな地頭をしています。一部愉快な子がいますがあれは本当に一部です。そういう子はサーカスにでも入ればいいと思いますし、良い悪い無しにそういう子にはそうあるべき姿というものがあるんですが、でもほかの子はべつです。話していてハッとするようなことを言うことができたり、俺の矮小な海馬からは考えられないようなすばらしい記憶力を持った子もたくさんいます。ちょっとやれば確実に俺よりもできるはずなんです。しかし結果的にそうはならなくなったということは、真に正しい教わり方というものを知らず、また真に正しい教え方をする人というものを見抜く力を、悲運にも養成してくることができなかったということです。手放しに「自分には無理だ」と考えて根っから拒否してしまうことが阻害してきたものは大きかったはずです。そしてこれからもそれが最大の枷になると思います。実に惜しい話です。
(3)
 前にも書きましたが、俺は受験勉強というものを、ある意味では楽しんでいました。もちろん「はやくやめたい」という気持ちもありましたし、「はやく遊びたい」というセリフもたくさん吐きましたが、それは正確に言えば「遊びのベクトルを変えたい」というもので、しかし面倒だから一番使いやすい「はやく遊びたい」になっていただけです。長かった受験勉強の中で、俺は楽しみを見出していました。それは事実です。しかし億劫である気持ちも、述べたように同居していました。それでどうなったかというと… 2年も続いた習慣というものは恐ろしいもので、続けている内に徐々に俺の生活に染み付いてきて、あろうことか、受験が終わった今でも、一日の中で少しは勉強しないと不安な日々が続いています。ので、仕方ないのでしています。数学と日本史をやっています。あまり長い時間は取っていませんが、形だけは済ませています。また英文を読むのを欠かすと直ぐに読めなくなるので、音読もやめていません。少々奇妙なことではありますが、成るようにしておきます。
(4)
 これは少し受験から離れた話になります。しかしそれでいて最も受験らしい話にもなります。おれは(1)で「勉強したいから」受験をすると書きましたが、それには実はもうひとつ大きな理由があります。ズバリ「そう言われて育ってきたから」です。この一年で何回か書いたフレーズですが、俺はこれでかなり言われるがままに生きていたところがありますし、まわりに準拠して生きてきたところもあります。俺は両親やまわりの大人から、知らず知らずの内に高いところへ行くことを考えさせられてきました。そういう教育によってです。世間一般にいいとされるところへまずは行くのだという前提で育ってきました。とか書くと、典型的な教育ママの下で育った抑圧された子供のように聞こえるかもしれませんが、そんなことは一切なく、知っての通りおれは不登校を決め込んでいた時期もありましたし、もちろん親もそれを許容してくれましたし、文科省が推奨する学科をせっせと勉強する気なんて一切なしのまま好きに中高生活を送ってきましたし、それで別段文句も言われませんでしたし、むしろ自由度は圧倒的に高い家庭内教育を受けてきました。ですが、非常にナチュラルに俺は最終的にはある程度のところへ入ることを期待されていましたし、自分でもそういうものなのだと思っていた節はありました。最終決定はきちんと自己で済ませたとはいえ、そこまでのコースへの誘導は、殆どすべて周りの力に因ったものといって差し支えありません。具体的に言うなら、大学受験界のことを全く知らない時期に、「よくわからないけどMarchって呼ばれているところくらいでいいんですか?」ときいたら「学費出さないよ」と言われたくらいです(語弊がないように言っておきますが、Marchも良い大学です。問題は志でした。…わかりますよね? つまり俺が努力した上でそこになるのならともかく、はじめから妥協するような態度は絶対に許さないということです。ここらへんを否定するMarch生はいないと思います)。そういう面においてストリクトであることが、俺の最低限の意識を形成しているのだと思います。だからこの界隈の話は、突き詰めていけばどう言われ育ってきたのかという次元に達するのだと考えています。確かに、俺が幼少期の頃から見知っている人というので、(本当の本当に悪い言い方になってしまうですが)、有名大学でない人というのはいないです。ここまでくるとこれまで以上に話しにくい領域になります。派閥や、ある種の階級の問題も出てきます。ので、これで終わります。ですが真に語ろうとするならばここらへんは外せないと思い、触れておきました。
(5)
 これはネット上で見かける話で、実際に話したことのある内容ではありません。一応受験に関わる話なので触れます。簡単に言えば、ある環境をうらやむ話です。これはよく見ます。極端な例を出せば「予備校行けるなら受かって当然だ」や「限られた参考書の中で努力するほうが偉い」の類の話です。なるほどなと思います。海老で鯛を釣ることが大抵の人は好きで且つ偉いと考えているので、そういう論も跋扈するものでしょう。そしてその話の裏にあるのは、貧困でありつつ努力する自己への賞賛です。もちろんこれはそういう努力自体を否定する話ではありません。しかし幸運にも10代のうちに世界を見てくることのできた人間に言わせてもらえば、なんと狭い自覚かと思います。グローバル化はともかく、グローバルに広い視点で物事を視ることは掛け値なしに良いことです。俺は自分よりも幼い子が自分の人生に何の疑いも持たず当然のように体を売って生きているのをみたことがあります。渋滞している車の群に近づいていっては片っ端から窓を叩いて空き缶を差し出して「コインをいれてください」とお願いすることに一日を費やす子を見たこともあります。というよりも、場所によりますが、海外に出ればそんな光景は基本的にはしょっちゅうです。豊かな先進国に生まれて(今がどうだかという話はともかく)、贅沢にとは言わないまでもきちんと保障された生活の中で飢えることもなく受験に備えた勉学が出来るのなら、その時点で俺からしたら一様に幸福にしか見えません。その次元で文句を言ったり鼻にかけるなど冗談甚だしいとさえ思います。いつか、お金をかけた旅行でなくても、バックパッカーにでもなんにでもなって、そういう世界を見てくれば良いと思います。本当にそう思います。 脱線になりますが、何よりこの話は、去年著しかった(今も著しくあるべき)TPPの話にも繋がります。未だ多くの日本人はアメリカという国の弱肉強食な世界観というものを知らないように思えてなりません。お金がなければ本当に死ぬんです。つまらない病気でも容赦なく見殺しにされるんです。あまりにも国内ボケしていると現実味がないのかフーンくらいで返されるんですが、実際の話です。
 とりあえずこれくらいで切ります。続きがあれば(6)から再開すると思います。