こんばんは。おれです。渋谷の文教堂が縮小してからというものすっかり品揃えが乏しくなってしまって残念です。新書の少なさに圧倒されました。欲しかった本すべておいていなかったので仕方ないからヴィンランドサガの新刊を買ってしまいました。なんということでしょう。しかも読んでしまいました。帰りの電車で。なんということでしょう。超☆面白かったです。この漫画は本当によく作りこんでますね。こういうプロットを練ることができるというのは凄まじい才能です。支持します。内容的には…、トールギルがこういうキャラだったということに驚きました。設定的に何かしら重要な役目を果たすだろうとは思っていたんですが、こうまでかっこいいとは…。びっくり。今後は、すっかり人相の変わったクヌートが来ることでケティルの脆弱なことがばれてしまったり、その関係でアルネイズとエイナルになにかがあったり、真の戦士となってしまったトルフィンとクヌート・トルケルとの再会でいざこざがあったりするんでしょう。楽しみです。 ただ、ひとついうなら、もうあの険しかった頃のトルフィンの絵が見られないことだけは残念です。かっこよかったんですけどね… まあそんなかんじです。おれです。こんばんは
 今日、予備校での最後の授業が終わりました。ちょっと前にも書きましたが、後半はまさに光陰矢のごとしといったスピードで過ぎていってしまって、あれよあれよという間に終了してしまいました。思うところ色々あるのですが、詳しくはとりあえず試験が終わってからにしようと思います。
 今年度の前半はかなりゆっくりしており、後半はかなりはやかったと書きましたが、では総合的にみたらどうなのかというと、これは十分に速い一年だったのではと思います。よくよく考えるとそうまでに密度が薄いわけではなかったですし(一応夏は海外に渡っていますし)、体感時間的には19歳が人生の折り返し地点であるということを考えても、まぁこれくらいの感覚が正常なのだろうと思います。しかし不思議なのは、美術館や展示などに行っていたときの方が時間の進みが遅く、まぁまぁ勉強に集中していたといっていいだろう時期の時間の進みの方は馬鹿みたいに速かったということです。これにはいくつかの要因が考えられますが、その中で一番大きいのは、おれはこの一年間の勉強をそこそこ楽しんでいた節があるということではないかと思っています。浪人したならば国立志望にしようと思っていたのが、ぶっちゃけてしまえば親の微妙な反対で再度私立志望ということになってしまい(信頼ないですよね)(でも、それに素直に応じたということは、おれも心のどこかでは無理かもしれないと思っていたということでしょう。これについてもいつかは書きます)、科目に対する真新しさというものがものすごく少なくなってしまったので、対抗策ということで、個人的にかなり現代政治に直結するような、ある種の実学的な歴史をコツコツやっていたのですが、それがかなり面白かったというのはあります。細部というよりも流れの中で大きな枠組みを捉えるという考え方を持つことに成功したと自分では思っています。それが本当に正しいものなのかどうかは大学教育で判明するんでしょうが…
 一般に、浪人という生き物は何をするにも「試験が控えている」という事実が付きまとうので精神的な負荷がかなり強いと言われますし、実際にそうだと思いますが、しかし俺があまり直接に人に言えないのは、それでも俺にとっては浪人生活の方が、小学校中学校高校に通うことよりもずっと気が楽だったという事実です。そこには酷い解放感というものがありました。どれだけ学校嫌いだったんだという話になりますが、いくら言っても言い切れないほどに、おれは高校以下の学校生活が大嫌いでした。学校という概念にバズーカをぶっぱなしてやりたいほどに嫌いでした。よく学校は社会の縮図だといわれますが、これは実に言い得て妙な表現で、あそこはまさに社会でした。俺程度が簡単に言い負かせるような大人相手に表面上でも従わなければならないという事実に直面せざるを得なくなる日々を送ることは、要は目の前に置かれた、現状ではそれ自体凄惨であることを免れない「社会」という物体を凝視し続けるに等しい行いでした。おれが学校を嫌だと思いはじめてからの十年弱、社会の持つ軋轢というものがありありと俺の眼前で繰り広げられていました。俗世です。自らの中で暴れるフラストレーションに対しどう処理すればいいのかもわからずに(俺は小学校生活の後半を引きこもって本に費やすことで、我流の対処法というものを身につけたつもりでした)、「これはこうだからこういうものなのだ」というロジックエラーを起こしている前提を塗りこんでくる恐ろしい刷り込み教育に従われている同い年の子供たちを見て、さらには彼らを諭す方法が、自分が同年代である以上はどうしてもあり得ないのだという事実を見て、また見ることによって、俺が入念に頭の中から弾いてきた現実という醜いものが執拗に迫ってくる思いがしました(脱線になるので書きませんが、完全に閉ざしてしまうことも良くないのだ、と最近は思うようになりました。ウォルト・ディズニーがどうしていけ好かないのかという話を聴いた際に、目から鱗から落ちるような啓蒙をされました)。合理性の欠片もない論を、教師であるという自分の立場と、俺がこの十九年間くそくらえと思い続けてきた「ルール」という名の間違った常識との二つで無理矢理押し通そうとしてくる大人たちに反吐が出ました。そして反発すればするほどに合理性を忘れしなやかであることを辞めた大人たちに「反省」を促されました。
 俺は自分が未だ馬鹿な国民だということを認めつつも、それでも過去から教訓や美点を見出すだけの力を培ってはきたと最低限自負していますが、そのおれでもあの中学校高校生活からはほんの僅かな美徳しか見つけられませんでした。出会いや副次的な経験を完全に抜きにして、純粋にシステムとしてあの制度を見直したときに、得られるものなんてほんの一握りだったということに気付きました。
 体系的な「歴史」の勉強と、まわりを見つめての「現状」とを顧みたときに、俺はこれからの教育というものの重要性を良く理解しました。もしそこが生徒に正しい読書を促すことのできない教師しかいない学校ならば、そんなものは潰れてしまった方がいいんです。エドワード・サイードがどうしてアラブ人に混じって母国の同盟国に石を投げたのかがわからないような人を作るのなら、そんなところはなくなってしまった方がいいんです。
 こうまで学校生活が嫌だったことを強調して、それで何が言いたいかというと、つまり、おれは半年以上本来の独り暮らしより何故かハードな独り暮らしをして(主に姉的な意味で)、一週間くらい前に洗濯機が壊れてしまってからはこの大切な時期だというのに桃太郎の時代まで回帰して服を手洗いして干しているような毎日を送ってきましたし、読みたい本やしたいことが溜まっていく中でずっとカリカリ筆を走らせていた時期もありましたが、欲求が溜まっていく中でそれでもペンを持ち黙々と紙を見つめみたり、それで何か考え付いたり、たまにこういうところに思ったことをこっそりおいていったりような一年間も、総合的に見たら結構楽しくて、それは社交辞令だったかもしれませんが、こんな身の回りの色んな人に気遣われなければならないほどに辛い毎日ではなかったのだ、と終盤の今ではそう思っている、ということです。これには記憶力の悪さも一役買っているんでしょう。なんといっても俺は、つまらないことや辛かったことは簡単に忘れてしまう人間ですから、本当に正直を言えば基本的には楽しい思い出しか残らないですし、それは振り返ることに限定すれば、そこまで悪い性質ではないのです。
 試験は明々後日からはじまります。では補強してきます
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 星が奇麗な夜でしたので撮りました。

 映らなさ過ぎて笑えました。