コトナ。(修)

 風邪が悪化しました。この数時間で一気にくたばりぞこないになっています。今はぁはぁしながら打ってます。はぁはぁ。こんばんは
 風邪の時は眠れないので少なくとも横になりながら有意義なことをしよう
 と書きつつ非生産的な真似を続けます。
 さっき北朝鮮の日本攻撃に関する話で少々面白いものを読んで、裏も取れたので、今度からこの説も使おうと思いました。そしてインスピレーションが湧きました。
 世界に関することを聞くと子供と大人について考えさせられます。
 それについて書きます。
 いつだったか書いたような気がしますが、俺は常に「子供である自分がいつ大人になってしまうのか」について考え巡らせてきました。理由はわかりません。しかし気になって気になって仕方ありませんでした。新聞に書いてあることがすべて理解出来れば大人なのか、政治討論が出来れば大人なのか、何にせよ最低限教養がなければどうにもならないこと以外には何もわかりませんでした。そうして手探りで生きている内に、俗世から「大人になるということ」についての情報も入ってきましたが、しかしそれら「童貞を捨てれば大人である」「お酒をおいしく飲めれば大人である」「自分で稼げば大人である」「18歳未満は入場禁止である(18歳以上は大人である)」などの、いわゆる身体的変化・イベントに基づくものは全てナンセンスに思えました。酔っ払って適当に居合わせた女の子と寝た次の日にポルノサイトを見ている20歳フリーターが冷戦とはなにかについてすら説明できないなんてことはままあるように思えました。
 毎日毎日、その日のいつかの瞬間に「今はまだ子供か」を考え、そして結論していました。「まだ子供である」と。もし「大人である」と結論できたなら、前日との間にあったことを探っていけば、どこの地点で子供から大人へ変化したかは解明できると思っていました。たとえ緩やかな線形を描いて段階的に変化しているにせよ、どこかの一点でスッと変わる瞬間があるはずだと確信していました。
 結論からいうと、このことに関しては未だ答えは出ていません。しかし解決はしました。順番でいうとこういうことです。段階的にでも大人になっていく、その条件というものを理解する。⇒要は単純に知ることなのであろうと。⇒そして大人になりきってしまうことはよくないのだと。
 噛み砕いて書いていきます。
 大人になるということは哀しいことだと思います。子供の頃は考えもしなかった世界の悲惨な現状をニュースで知り、ジャーナリストの投げた石で知り、一人歩きするインフォメーション・サービスで知り、日本での自分の裕福な生活の下に敷かれている死体の数というものを学んでいきます。たとえば、そこにある板チョコ1枚でさえ、ガーナの子供たちの死に物狂いの、場合によっては現に死に至るほどの労働の末にこの国で100円で売られているものだということを知りつつおれは食べています。(幸せに生きるためにはある程度は知らなくいいこともあるのだということにも気付きましたが、それは脱線になりますので、また)。英語を読めるようになって、少しマイナーなネットのニュースサイトを巡回するようにならなければ、おそらくずっと知らなかったような事実です。
 そのように、知識を得て残酷さを知ることが大人になることなのだと気付いたときに、ようやくバリの言いたかったことがわかった気がしました。エロチックでグロテスクな世界の様相を知っていくくらいなら、子供のままでいた方がいいのかと考えました。
 しかし知っていくことはやめられません。
 どうすればいいのかを悩んでいるうちに、今度は分岐点の話が問題になりました。これは定義と固定ができることなのだろうかか? こうして知っていく中で、頭に蓄積されていって膨張しきった内側が、急に風船が割れたかのようにパッと弾けて、そうしたら大人になるのだろうか。それではまるでロシアンルーレットそのものになっているみたいだと悩みました。そして、そういうことについて考えていた時には、既に子供であるか大人であるのかの自問自答の答えが「わからない」に変貌していました。
 いつの間にか「子供である」と断言できなくなっていました。
 焦りました。俺がこんな混沌の位置に足を踏み入れたのは何時からだろうと焦燥しながら、記憶力が悪いので付けていた日記を頼りに前から追っていきました。そして見つけました。
 高校1年生のときにわざわざ家族旅行を辞退してまで小説を書いたことがありますが、そもそもあれを書こうとしたのは何故だったのか、というところに答えはありました。その要因は、その小説を書いていた一年前の夏の、フランスでの出来事だったように思います。
 こんな出来事です。ニースを離れる最後の夜に、繁華街から少し離れたところで、父がレストランに何かを忘れたといって戻っていってしまって、仕方ないから小さな雑貨屋なんかが並ぶ通りをふらふら歩いていたときです。急にひょいと裾をつかまれて、何かと思って振り向いてみたら、アジアの血の混ざった顔をしている女の子が、フランス語で何かを話しかけてきました。人と人との言語コミュニケーションの際には、実際には言語内容自体は意思疎通において25パーセント程度しか働いていないといいますが、今よりもさらにずっと無知だったときの当時の俺にでさえ、彼女の身なりと仕草から「街娼だ」ということは直ぐにわかりました。その時の自分の反応についてはよく覚えていません。たぶんちょっと怖がっていたとは思いますが、しかしなんにせよ簡単な英語できっぱりと断りました。すると、見た目には幼い娼婦が一切読めない表情をして、何かを言ったあとに道の端へ行って、また道行く外国人男性を探しはじめました。
 俺の方にはもう見向きもしませんでした。
 佇んでいると父が戻ってきたので、ふたりで歩いてホテルに帰りました。歩きながらは何も考えていなかったし、シャワーを浴びながらも何も考えていなかったと思いますが、寝る前に日記を開いて、「あの時、俺はあの子に影響を及ぼせないと考えた」と記してから、筆に教えられたように、ふと思いました。子供としての俺が持つ様々な可能性のうち、ひとつが潰えたと。元は無限大だったファンシーな可能性を潰していって、リアルな現実に収束していくこと、大人になっていくことの過程は、異国の少女に何一つアフェクトできない自分の存在を考えた際に、淀んだ色の混沌として俺の前に現れました。そしてそれに直視した瞬間から、子供と大人の狭間にいるのだろうと、そう結論しました。
 一連のことが幻視ではなく、ほかでもないリアルとして世界を共有しているのだと考えるたび、また夢のない大人になっていきます。ノーベル平和賞を受賞する大統領が居座るホワイトハウスから1キロも離れていない地点で、年端もいかない女の子が体を売って生きていることをCNNのニュースが放送するたびに、ネバーランドからは離れていきます。
 その翌年になって、おれは対抗策を講じるのに近い気持ちで、現実世界で虐められて、なんとか逃げてきたファンタジーの世界でも虐められてしまう女の子が、素質ある主人公と対抗して栄光の座を取ろうとするも失敗し、しかし最後は主役になれないことを認め、その地位に安住するという小説を書きました。舞台はネバーランドではなくアリス・イン・ワンダーランドでしたが、その女の子は世界の摂理を「知った上で」あきらめ、自分と違って才知ある主人公の男の子に依存していきます。
 大人であるという負の要素を無効化するには、ニヒルになりきって忘れてしまうか、延々と子供のままでいるほかないのだ、ということを思って書いた小説です。しかし落選しました。単純にストーリーがつまらなかったんでしょうが、それ以上のものがそこにあったのではないかと思ったのは、ほんの数ヶ月前のことです。
 そこにはストーリーの根底に必要なものが抜けていたのではないかと考えました。要は、子供は子供でマイナス点を持つ、ということを失念していたということです。俺の書いた小説の女の子は、おれが気に入って書こうとするだけあって、両極端で尖っていました。大人が駄目なら子供になろうと突っ走ってしました。しかしそれがいけなかったのだろうと。子供には子供の弱点があります。自我が弱いですし知恵もありません。個々の経験もありません。成長ためには可能性を食い潰されなければならないという大人の弱点よりかは劣りますが、それにしても大きな弱点であることに変わりはないです。
 TEDの「子供っぽいとは」を語る神童のスピーチを見たときに強く具体化することができましたが、大人は大人になっていくというマイナス要素を孕みつつ、しかし「子供っぽい」と一般に呼ばれる広大な夢を持つことによって、萎縮も絶望もしない前向きな姿勢で――、かつ大人であるという利点を大きく利用することで、マイナス部分をも凌駕するような――、凄まじいプラスを生むこともできるのだと、そう考えるようになりました。大人のもつ経験と叡智を使い、賢い取捨選択をして、しかし子供のもつ広大"すぎる"ところは中庸精神で切捨てつつ、「それでいて夢を持つことで」、子供の持つ過ぎた夢にも大人の持つ絶望にも騙されない、真の意味で正しい方向に進んでいけるのではないかと。
 子供であり大人であること、つまり今の自分の段階であること、混沌に身をおきつつも多様な色に騙されずにこれで良いと思える方向を見据えることができること、これが最良なのではないかと、そういう結論に至りました。
 いつも言っていることです。どっちになりすぎていてもよくない。言うならばどちらをも疑って、偏りなくどちらの要素も吸収すること、それがいいのであって、子供であると言い切ったり、まして大人であると言い切ったりすることは、計り知れないほど多くのものを殺してしまうのではないかと、つまりはそういうことです。
 朦朧とする頭で書き走りましたが、なんとなくは伝わる内容になったとは思います。要は「こっどもー」と言われても悔しくないよということです。安易に大人であることが良いと思っているものにはわからないことがあるのだ、と腹の中で思いながら、もはや褒め言葉として受け取れる人間でありたいと思います
 終わり