何も変わっていないものだと思いつつもやっぱり実は変わっているみたいです。おはようございます。わたしです。
 何が変わったのかというと、完全にあけましておめでとうございますと言いたくなくなりました。そもそもがあまり好きな言葉じゃないんですけど、まわりが言うから一応あわせておこうとして言っておく、というスタンスを続けていて、去年の今日の投稿とか見てもわかるんですが、まさに「言いたくないけど言います」という具合でした。でも今年はたとえうわべだけでも社会に迎合して言うことさえしたくありません。何故か、と考えても本当に明確な答えはでないみたいです。別に去年何があったからどうとかいうことでも「今年もどうせ」と悲観してどうとかいうことでもないですし、となると、風潮に対する反骨精神の表れとかカウンターメジャーな意気込みとか、どちらかというとそちら側の理由に因るように思えます。さらにいえば、単に新年のことを全くめでたいと思っていないからなんじゃないかという結論に至ることもできます。
 去年の今日も全く同じことを書いたんですが、人々が記号の中で生きているということがどうにも嫌いでしたし、今でも嫌いです。それが特に自分との関係性が薄ければ薄いほどそうです。 ちょうど昨日の慶プレの英語にも出てきましたけど、「時計の登場によって人々は世界を数学的連続性のあるものとして捉え、自分の感覚を基に生きることをしなくなった」という切り口で知的技術に対するマイナスを譲歩していました(本文自体は知的技術万歳というものでした)。もちろん時計が齎した恩恵は絶大なんですが、自分感覚を捨てることで確立した基準によって不自由になることもまた明らかな欠点ではあります。そしてそういう不自由感に身を触れさせることは、たとえフェイントだとしても無意識の内に本当に自身を大事にした感覚を失わせていくのではないかと思います。
 要は、個人的には全くめでたいと思えない正月をわざわざ社会にあわせて乾杯することのメリット・デメリットを考えていくと、俺にとってはデメリットの方が大きいから、今年はとりあえず順応しておくのはやめようと考えた、ということです。 それになにより、周りの人間に「なにがめでたいのか」を真剣に問い詰めていって、記号という概念を無しにきちんと理論立てて説明し返してくれる人はいないように感じます。「去年一杯を無事に過ごせておめでとうと思う気持ち」だって、だったら一瞬一瞬に感謝して生き給えと思います。恣意的な記号がないのは毎年でも毎月でも毎週でも毎日でも毎時でも毎分でも毎秒でもなく今ここにある一時の瞬間だけだ。その一瞬を駆け抜けろ。感謝をするのは「ふと」したときだけでいい。そう思います。4月5日だって9月19日だって、自分が生命に感謝したくなったときにふっと立ち止まって感謝すればそれでいいのだと。他人の決めた慣習に従って感謝しなければならない理由は何ひとつないのだと。
 自分の気に入っている教師が、時たま回さないと動かなくなってしまうぜんまい式の腕時計を愛用しているということの意味がようやくわかりました。時計の刻む記号は自分の感覚を大切にするための便利な道具でしかなく、そんなつまらない記号よりもずっと先を自然と感覚は突き進んでいるということを確認するため、ということみたいです。
 といってもそれらを分った上で新年をめでたいと思っている人ならばこちらとしても何を思うことはなく。「まわりがめでたいといっているから何がめでたいのか考えないけどまぁめでたいのだろうと思ってめでたいと言う人間」並んで「電子の波に自分のめでたいという気持ちを適当に省略形で投げかけることに対する疑問を感じずに尚これはめでたいのだと思い続けている人間」とは一線を引いて場を俯瞰できるような、自分にも厳格なcountertendencyの気持ちをもってやっていこうと思っています。
 ※「人は矛盾を孕まずには生きていけないのだ」と先に書いておきます。