アス・クライス・ビタリー1 ―時計/ソーサー/ドアノブ―

 この部屋に果たして幾つの時計があるのか私には全くわからなかったがだからといって別段数えようとも思わなかった。それほどまでにこの部屋の中には沢山の時計が溢れかえっていた。
 時計の種類は多様だった。壁一面には掛け時計がありあらゆる家具の上には置き時計があり家具といえば大きなのっぽの振り子時計はこの部屋だけで少なくとも四つあった。またテレビの上に並んでいる花瓶などはそのものが時計になっているようでその中央部分にはからは二本の針が伸びて10時58分を示していた。さらに私の目前にある机には砂時計が無造作に3つ置いてある。それぞれ青・黄・緑の砂の色をしていた。
 やはり圧巻の数を誇る四方の壁全てを覆う掛け時計は木製のアナログが圧倒的に多かったが液晶のデジタル時計もあるにはあった。また私の背後の棚にあるふたつのショーケースの右側にはびっしりと腕時計が並んであって左側のには懐中時計が同様だ。
 莫大な時計の量のために室内には常にカチコチカチコチカチコチ蚊血狐血蚊血狐血と針の進む音が響いていて私は入室して未だ五分ほどしか経過していないにも関わらず既に頭がどうにかなりそうな気さえしていた。私の座っているソファの右側の台所ではこの部屋の主であるお婆さんが私のためにお茶を用意してくれていたが、ゴキゲンなのか癖なのかはたまた故意なのか無意識なのかは知らないが意味もなくずっとお尻を左右振っておりそれを見ていると時計のカチコチ音とリズムが重なって何だか意味もなく笑ってしまいそうになった。
 そのとき丁度お婆さんが振り向いて私のニタついている顔を見たのか「どうかしたか?」と笑ったので私は「いえ」と云い少し縮こまった。お婆さんはプレートの上に歪んだ時計の模様がしてある大き目のポッドとティーカップをふたつ置いて持ってきた。「粗茶ですが」と云ってテーブルの上に置くので私は深く頭を垂れた。
「いただきます」「熱いんでお気を付けて」
 ティーカップを取るとソーサー(※カップを置く皿)それ自体がまた時計のデザインをしていることが判明し私は驚いた。私から見てきちんと上が12時で下が6時であることは思うに置く時にきちんと角度を計算したのだろうか全く粋な計らいである。
「おいしいです」翌々考えると緑茶以外を読むのは久々だったので平均がよくわからないが少なくともその紅茶は私の口にはとても合っていたので私は素直にそう感想した。「それはよかった」とお婆さんは言い自分もまた口にカップをつけた。
 暫く沈黙が続いた。時計の音ばかりが耳に入り奇妙な気分になる。蚊血狐血、蚊血狐血、価値。価値? それで私がどうにももどかしくなって「時計、お好きなんですね」と云うとお婆さんは慇懃に頷き「大好きだねぇ」と云った。そして「特にあの振り子時計が七十年前からの友達なのよ」と云って私から見て左の方面を指差した。其処には四つある中でも一際厳かな振り子時計がありなるほど七十年も前に造られていても不思議ではない威圧感を放っていた。私は頷いた。しかし七十とな。私の人生の三倍以上を生きている時計か。
「あの振り子時計の予備の針をちょいと改造して簪(かんざし)にしてるんだぇ」続けてお婆さんは自分の後頭部を指した。見ると確かにお団子に刺さっているその簪(かんざし)はあの振り子時計の針と同じものに見えた。しかし私は些か反応に困り「はぁ……」と云ったきり引きつったような笑みを顔に浮かべることしかできなかった。こういう時にさっと「素敵です」と云えないようではこの先が思いやられるというものだが。
 またも沈黙が訪れた。黙って紅茶を啜っている内に時計のカチコチ音は私を急かすためにあるようにまで思えてきたが客観的に考えても私が急かねばならない理由はなかったので私からは動かずにじっと質問を待っていた。お婆さんの方をちらりと見る。俯き加減でいて時計の音に耳を傾けているようだった。そして背後の壁には色とりどりの無数の時計達。不思議だと私は思った。全く不思議だ。どの光景を切り取ってもそれが異空間にある何処かにしか思えぬ。もっともあの家を出てきた私が言えた口では全くないのだが。ああそうだ全くない――
「おまえさんぇ」突然にお婆さんは云った。「はい」私は応えた。
「名前をもう一度教えておくれ」
「はい」返事をしながら、生まれた動揺を裏に隠して私は平常を装った。いよいよかと思った。背中に一斉の発汗を感じた。
「九条、…ナツキと申します」
 私ははっきりと発音をした。言霊よ、と私は考えた。お前に列記とした力があるのなら今こそ効果を発揮せよ。私の名前は九条ナツキだ。
 お婆さんはこくりと頷いた。
「そう、ナツキさんぇ。ナツキさん。……あたしが訊くのは名前までで十分ぇ。あとは、ナツキさんぇ」
「はい」
「あとは、自分の好きなように自分を教えてくれればいいぇ。もうあたしは何も訊かないから。ナツキさんが言いたいことだけ言えばいいぇ」
「は……」よく言っている意味がわからなかった。私は自分でも不自然だと思うほどに妙な瞬きを何度かした。口元は少し笑っていたように思う。
「どういうことですか」訊くと、直ぐに「そういうことだぇ」と返された。そうしてお婆さんはむっつりと構えてまた少し下向きになった。お婆さんはそれ以上は何も答える気がないように見えた。
 急な状況を上手く呑み込めなかったが私は何よりも先ずは落ち着いて考えるが先決だと思い紅茶に手を伸ばした。そして先ほどまでのことを思い出した。私は家を出て代わりに住むアパートを探していた。世間知らずの私はどうすればいいかよくわからぬままに適当に歩き回りいずれひとつの小さな建物を見つけた。それは私の目にはとても良く映った。どうしてだかはよくわからない。左右の大きめの建物に挟まれてまるで隠れ家のように見えたそのアパートは何だか無性に私に合っているような気がしたのだ。一目惚れといってもいいが何にせよ物は試しと思いまずは大家を訪ねて部屋に空きがないかどうかを訊くことにした。その大家がこのお婆さんだ。一階の紫色に染まった扉を叩いたらこのお婆さんが出てきて「大家さんはどなたか」と訊くと「あたしだぇ」と答えた。ついさっきのことだ。
 お婆さんは「空きならあるぇ」と云った。私が喜んだのも束の間だ。お婆さんは私をこの時計だらけの異界へと私を招くとそのまま紅茶を入れに台所まで行き後はご存知の通りだ。
 私はお婆さんの云ったことを反芻した。なるほど「そういうこと」ならば「そういうこと」なのだろう。私は言葉通り受け取ることにした。書類などは一切ないらしい。言葉と言葉のやり取りでお婆さんは私が入居していい人間なのか否かを判断する。そういうことのようだ。私は紅茶をぐいと飲み干し時計を模したソーラーの上へ置いた。つい先と違い味は殆どわからなかった。しかし問題だ。
「…………」
 一問一答ならあるいはと私は考えていた。訊かれて答えるのならばできる。たとえば名前を訊かれたならばそれは答えられる。何をしている人なのかというのにも答えられるような気がする。しかし私から全て好きに話せと云われると胎の中でいくつかのワードが混ざり合い意味のあるかのような科白が出来上がるもののいざ口からは出てくれないので非常に困る。その工程を何度か踏む内に深まり往く焦りを無視したいところだったが時計の音がそれを邪魔しているように思えた。私は黙りこくっていた。何故何も言えないのか。考えてみれば直ぐに分かることだ。それは空虚と恐怖のせいだ。私は空虚な人間だ。二十年間そうだった。何かが生まれるならばこれからなのだ。だからこれまでを語れと云われても何も出はしない。そして無理矢理に嘘を語るにしてもあることないことを云うのは怖ろしい。このお婆さんには一種計り切れない何かがある。もしかすると私の偽名にも既に気付いているかもしれない。そんな気がしてきた。そしてそう考える毎に私の口はぱくぱくと魚のように開閉するだけで何も声を練り出しはしなかった、できなかった。
 総てが駄目なような気が一度すると落ちた水滴が水面に波紋を呼ぶように私の心に往き渡り「駄目だ」「駄目だ」「駄目だ」「駄目だ」「駄目だ」「駄目だ」と声になっていつの間にか耳に響く。いやこれは時計の音だろうか。かちかちかちかちかちかち価値価値価値価値と時計が四方八方から私を叱責しているようにまで思えてきた。あるいはこれはお婆さんの策略なのかもしれない。俯き加減のお婆さんも裏では私の皆無っぷりを見透かしてケタケタと嗤っているのかもしれない。
 口篭りながら、私は空虚なる自身の道を思い返していた。もとより無理だったのかもしれない、と思った。顔がみるみる熱くなっていった。少なくともこの場は無理だ。ハズレをひいたのだ。そもそもおかしいではないか。こんな時計だらけの部屋など。異質極まりない。
 そしてこの異質空間に居るにも関わらず何故かこの何もかもわからなくなっていく感覚にもう捨て去ったはずの家の敷居の内側にずぅと漂っていた救い様の無い閉鎖的腐臭の陽炎を視てしまいいよいよ私は耐えられなくなった。
 コミュニケーション ・ ブレイクダウン。
 突如私は立ち上がった。
「失礼する」
 うわずった声で短くそう云い折り畳んで置いていたコートと小さな旅行鞄を手に取り急ぎ足で玄関へと向かった。こうなると兎に角一刻も早くこの部屋から脱したかった。惜しいアパートだったが仕方ない。何せ私には権利がなかったのだ。此処で必要とされている自己PRなど私には到底不可能だったのだ。他のアパートにならばあるいはと希望観測することはあまりにも図々しかったが取り敢えずこの場は仕様が無い。私は急いで靴を履きドアノブへ手をかけた。
「ん」しかし回らない。どういうことか。私は力を入れてみた。回らない。焦り反対の方向も試みるが同様。まさか内側からも施錠されているのか。
「開けようかぇ」
 直ぐ後ろから声がした。飛びのきこそはしなかったものの私は驚愕のあまりに開かぬ扉に備支離と背を貼り付けた。すぐ目の前にお婆さんがいた。無表情にこちらを見ていた。
「開けようかぇ」
「……っ、……」
 私は何も言えなかった。いやその時はもう何かを言えたかもしれないが言わなかった。そうするのが正解なような気がしていた。上下する肩を鎮めようともせず私はお婆さんの瞳を侍威と見つめていた。またお婆さんもそのように私を見つめていた。お婆さんの瞳は傍目には閉じているか開いているかわからなかったが先ほどからずっとそうであることを顧みるにきっとそのような瞳なのだろう。そう納得をしながら見つめている内に私の熱は冷めていった。まわりには沢山の音が流れていった。価値価値、価値価値価値? ――時間の流れ。それが齎したというのもあるだろう。何にせよ私はお婆さんの問い掛けに答えることもなく仏像のように口を閉ざしておりその間に自分の失礼というものを段々と反省するまでに至った。
「……開けていただきたい」
 大分の時間が経過した。私は幾重も呼吸を繰り返してからゆっくりとそう答えた。お婆さんは頷くとこちらの方へ寄ったので私は避けた。不思議なことにドアノブはお婆さんが触れるとすんなりと回った。私は首をかしげた。
「ナツキさん。ちょっと待っときぃ」
 お婆さんはそう云ってまた部屋の方へと潜っていった。私は一息をついた。封と。依然違わず響き鳴る針の音はしかし既にもう私を問い詰めるカウントではなくなっていたのでそれを聞きながらも脳は平常通りに回ってくれた。そのようなわけでお婆さんを待っている間にも私の反省は募っていった。そうして今度は面映いものを感じた。羞恥である。嗚呼私は何をしていたんだろう。あれは世間において赦される事では到底ない。感情に任せた結果がこれである。額に触れると未だ熱かったが内面はとうに冷えていた。
 しかしこれでいよいよ判明した。
 私には何もない。そして嘘を語る度胸もないのだ。そう自覚すると急激に元気はなくなっていった。暗澹としている未来を想うとそうならざるを得まい。
 そこでまたお婆さんが現れた。目が合うや否や私は深々と頭を下げた。
「先ほどは失礼した……。云うにはあまりに下らぬ確執のせいなのですが……、折角機会を設けて頂いたというのに、全く面目ない限りです」
 心底からの謝罪であったが声は掛からない。やはり怒っているのだろう。私は暫く腰を折ったままでいた。しかしやがて耳が時計の針の音以外のものを捉えたので珍しいと思い目だけを開いてみた。ちゃらんちゃらんという音。お婆さんがその手に持っている鍵束を揺らしているせいだった。
「それは……?」
「このアパートの鍵だぇ」
 瞬時思考の停止が訪れたので私の返事は一寸ほど遅れた。
「それはどうして……」
「ナツキさんの入居のためだぇ」
 まるでなんでもないようにお婆さんは云った。私は驚きのあまり足元が腐羅つくのを感じた。「どうして?」それだけを考えた。私はお婆さんに何も云おうとせずに無理矢理出て行こうとしたのだ。千通り取れたはずの行動の中でも最も後へ続かないだろうことをしたのだ。お婆さんがあまりに自然に言い放ったために一瞬もしかして私はきちんと応対をしたのではないかとまで考えたがやはり何はあり得てもそれだけはあり得ないだろう。
 呆然とした私の表情から読み取ったのかお婆さんは「別に何も言ってくれなくても問題はないぇ」と云った。
「と、というと……?」
「言った通りだぇ」お婆さんは輪から鍵を一本出すとそれを私に差し出した。
「一目見た時から別に構わないと思ってたぇ。そう、ナツキさんがその扉を自ら叩いてあらわれたその時から、お前さんの目を見た時から別に構わないと思ってたぇ。言葉なんてものはあたしにとっては単なるプラスアルファでしかないぇ(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。ないならないで別に構わないぇ。もちろん、ナツキさんが何も話したくないというのならそれはそれで問題ないんだぇ」
 未だ理解が及ばないで固まっている内にお婆さんは私の手を取り鍵を握らせてしまった。
「<<きゃんでぃ・ぽっぷ>>へようこそだぇ。ナツキ(、、、)さん。おまえさんには十分、うちに来る権利があるぇ」
     ○
 そうして、私はここに住むことになった。
     ○
 階段を登りながらも何度戻ってお婆さんにもう一度話を聞こうかと迷ったがどう訪ねても「言った通りだぇ」としか返ってこない気がして一々止まる足の行方はやはり上にしかなかった。否、嬉しいは全く嬉しいのだ。しかし唯唯気にかかる。お婆さんもお婆さんの部屋も全て白昼夢だったのではないかという気さえしてきた。ひょっとすると今戻っても何もないかもしれないと。それほどまでにあそこは異空間的であった。私は時計塗れの部屋と一種独特な訛り口調を思い出せば思い出す程に可笑しな気分になった。
 <<きゃんでぃ・ぽっぷ>>それがこのアパートの名前らしい。階数は全部で5階だが5階は屋上だから実質4階までしかない小人毬としたアパートだ。私の部屋は<<401>>だった。金色の鍵にそう彫ってある。ラッキー4なのは気を使わせてわざわざそうしてくれたのだろうか有難いことでありまたその想いは階段を登る毎に見える景色が強めてくれた。<<きゃんでぃ・ぽっぷ>>は少し丘高いところにあるようで正面から丁度街全体を見渡せるのだがそれは中々に絶景だった。私が今までにいた部屋と考えると天と地ほどに差があった。
 4階へ着くと目の前に<<406>>の部屋があった。左右を見ると左が<<405>>で右が<<407>>だったので左へ進んでみると<<401>>は直ぐに見つかった。もう一度左右を見渡してから鍵を挿す。開く扉の音は眠っている犬が不機嫌に唸るかのように低く響いた。