この間第二外国語の授業の最後に教授(でも文系って専門科目の教授以外は正直先生って呼ぶことの方が多いですよね?)が「あなたたちもこんな基礎からの授業をまたあと1年受けなきゃいけないとかなったらほんっとバカらしいでしょ!? もう!! 絶対!! ナンセンスよね!!!」とかなんとか急に叫びだしたので一体なんなのだと思ったら、次の授業時間に行われる試験で6割以上得点しないと殆ど例外なく落第だそうです。なんか変なところで厳しい大学でした。
んでやるっきゃないのかなーいやだなーとぐだぐだしている内に前日になってしまったのでそもそも諸悪の根源であるぐだぐだ城こと自室を華麗に抜け出して近所(? 歩いたら40分くらいかかるけど…)のキャッフェに来たわけですが、それもこうしてキーボードとか持ってきてたりするから完全に集中できるプレースではないんだよ!! 困ったね!!!
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しかし何だか喫茶店とかで勉強とかするのは疎まれるそうです。前に英語の授業でそのトピックが出た時にそういう意見が多かったことでそう知ったんですが、へーって思いました。へー
自分も本当は図書館がいいんですけどね。ないですからね。もしあってもこんな遅くまで開いてないでしょうからね。難儀なものです
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中学生の時にある事情でCDを手に入れて初めて椎名林檎さんを聴いた時はとてもビミョーで若干がっかりして、それ以来長いこと聴いていなかったんですが、最近になって聴きなおしてみると、すごくしっくりくるようになっていて驚きでした。格好良い曲が多くて、はじめて聴いたときと全く印象が違いました。
音楽でも本でも映画でも、中学生くらいの頃は感銘を受けるものばかりだったのに、高校にあがったくらいからはいわゆる「当たり」は滅多に出会わない(本に至っては100冊に1冊もないくらい)ようになって、これは、受け手としての自分が変化したのは明白にしても、たぶん、それまで取り込んできた物で形成された価値観が、新しいものの定着を阻んでしまっているんだろうなと考えています。簡単にいうと柔軟性がなくなってるんだろうと。肥えたといっても間違いではない気がします。
中学生くらいの頃にハマったものをいま読み返すと粗がみつかったり正直面白くなかったりもするのに、それでも評価や印象が変わらないのも、それを基にした固定的な価値観が自分のインフラになってしまっているからなんだろうなと思います。
これは良いことなのか悪いことなのか? と疑問に思うより先に、残念ながらそれが年を取るということなんだろうと理解してしまっているから、まあ、現状は維持され、収束するにつれて先鋭化されていくのだろうという予期に対しては、遥か遠くから、こうして諦念を孕んだ微笑みをみせる他ないわけですな。まあいいさ、君の好きにしたまえってな具合に
でもその一方で抗う術を探している自分もいるわけです。あまのじゃくだな